「日本人はなぜキツネにだまされなくなったのか」内山節(講談社現代新書)より

「村人たちは自分たちの歴史のなかに、知性によってとらえられた歴史があり、身体によって受け継がれてきた歴史があり、生命によって引き継がれてきた歴史があることを感じながら暮らしてきたのである。日本の伝統社会においては、個人とはこの三つの歴史のなかに生まれた個体のことであり、いま述べた三つの歴史と切り離すことのできない「私」であった」
「・・・そしてそれが壊れていくのが1965年頃だったのであろう。高度成長の展開、合理的な社会の形成、進学率や情報のあり方の変化、都市の隆盛と村の衰弱。さまざまなことがこの時代におこり、この過程で村でも身体性の歴史や生命性の歴史は消耗していった。歴史は結びつきのなかに存在している。・・・1965年頃を境にして、身体性や生命性と結びついてとらえられてきた歴史が衰弱した。その結果、知性によってとらえられた歴史だけが肥大化した。広大な歴史がみえない歴史になった」
ショーペンハウエル「直感は精神そのものだ。ある意味で生命そのものだ。・・」
連句認識のための、都合のいい文言をいろいろこれまでもあげてきたが、内山氏の考察にも触発される。身体性、生命性は連句の世界にも孕ませたいものだ。
橋本治の最新刊「日本のゆく道」(集英社新書)にも「世界の転換点としての1960年代前半」とあり、同時期に出版されたこの両著には同一性があります。同時代意識といってもいいか。私は、橋本治を現代の吉田兼好ではないかと思っているのですが、この本の最後に「日本は、未来を考える選択肢の検討をとんでもなく長いスパンで可能に出来る国なんだ」と思うと、私はただ、「日本に生まれた日本人でよかった」なのです。そして、この本を全部頭に入れるのは大変だが、それは「選択に関する豊かな可能性を有している日本という国のあり方のせい」ですと書いています。
この二冊を同時に読んで、橋本のいう「豊かな可能性」に、内山の「身体性や生命性」をあててもいいのではないかと思いました。
養老孟司氏の「日本は外に向かってあんまりいいかっこつける必要はない」という発言と併せ、「豊かな可能性を有する」連句についての認識論的ヒントを得たような思いです。「直感(付け)は精神そのものだ」「付け句はある意味で生命そのものだ」(千年)