野ざらし紀行

野ざらし紀行から見えてくる芭蕉像を探り、野ざらし紀行が蕉風俳諧の源泉といわれる所以を、谷地快一先生の指導のもと、確かめてみました。(千年)


芭蕉初めての紀行文である「野ざらし紀行」(貞享元年八月〜貞
享二年四月)の解釈を通して形成されてきた芭蕉像を探ってみたい。
そして、「野ざらし紀行」以後の作品と対比させることで、「野ざら
し紀行」が蕉風俳諧の源泉であるということを確かめたい。先達の
解釈も引用しながら一歩でも読みを深めたい。

【草庵出立・箱根の関】
 〇野ざらしを心に風のしむ身哉

「ゑどをたつ日「ばせを野分其句に草鞋かへよかし」(李下)「月ともみぢを酒の乞食」(芭蕉)」(「天理本」より)の付け合いからうかがえるのは「野ざらし」と同様の「乞食」という自己描写。「笈の小文」(貞享四年〜五年)の「旅人とわが名よばれん初しぐれ(又山茶花を宿ゝにして)」の「旅人」ともとつながっている。
一方で、「先祝へ梅を心の冬籠もり」(貞享四年)、「秋ちかき心の寄や四畳半」(元禄七年)こういう休息の句もある。                               

  「野ざらしを心に風のしむ身哉 の旅は、旅に病んで夢は枯野をかけ廻る の臨終の句の旅への第一歩 という象徴的意味を持っている」(宇和川)
 「紀行文の世界は、しかし、そうした日常的現実を片足にふまえながら、世俗性とは隔絶した別乾坤を展 開してゆく」「芭蕉の旅そのものが、連衆心に支えられての旅」(尾形)

【冨士川】

 〇猿を聞人捨子に秋の風いかに

「捨子」の句は「野ざらし紀行」以後ない。七年前の延宝五年に「霜
をきて風をかたしく捨子哉」があるのみ。しかし、「捨子」も芭蕉
人生において捨てることのできない言葉だったのではないか。「おく
ほそ道・那須野」でのちいさき者の「かさね」の出現は、この「捨子」
の生まれ変わりのように感じる。「野飼いの馬」を貸した「野夫」の人情の自然さからもそう思う。

 「「汝が性のつたなきを泣け」とは、捨て子に対する引導であるとともに、また、自分自身に向けた痛恨の声でもあった。・・・  「つに無能無芸にして、この一筋につながる」・・「山中不材の類木」にたぐえているように芭蕉の人生、ないしはその文学の世界 はそうした社会的無力さの自覚の上に成り立っている」(尾形)
 「おそらく、芭蕉自身もまた、下級武士の身分から退進した一種の社会的「捨て子」であり、・・・・この世の身分からも、肉親か らも、生活秩序からもはみだして「野ざらし」の境涯を生きなければならなかった、自分自身の「運命」に対する覚悟を含むかのよ うな調子が読みとれるのである。言わば、「捨て子」の句は、「薦被り」(元禄三年「薦を着て誰人います花の春」)たろうとする 自らの運命への覚悟を含んだ視覚的等価物なのであり・・」(藤田)

【大井川・小夜の中山】
 〇道のべの槿は馬にくはれけり

 「むしろ、旅中馬上眼前の嘱目の背後に、漢詩や長嘯子の和歌ををうち返したおかしみや、人生的哲理を背景とした人間存在の悲しさや、あるいは旧注に説いているような「古池」の句とも通ずる一瞬の禅機やら、そうしたさまざまなイメージを包み込んでいるところに、この句の大きさやおもしろみを認めるべきだろう」(尾形)
 「「古池や蛙飛びこむ水の音」(貞享三年)「道のべの槿は馬にくはれけり」の両句を比較すると境地がよく似ているように思う。 両句ともにありのままのすがたが、すなおにまじりけなく表現されている。淡々として水の如しである。清澄で明朗で子どもらしくさえある」(宇和川)


私は、この両者の発言、「おかしみ」「人間存在の悲しさ」「一瞬の
禅機」「水の如し」「清澄で明朗で子どもらしい」をこの句で表現で
きた芭蕉に、「冬の日」五歌仙の成果の源泉、つまり蕉風俳諧の源泉
をみる。「冬の日」の連衆はこうした「イメージを包み」こんでいる
詩人・芭蕉を感じたと思う。

 〇馬に寝て残夢月遠し茶のけふり

 「「茶の煙」は、「夢」「茶煙」という漢詩における寄合を認めた上
 で、なおそうした和漢二つの詩脈の上に、芭蕉が峠の実景の中か
 ら発見しつけ加えた俳諧の独創であったということができる」(尾
 形)
 「そこで芭蕉は再案して「馬に寝て残夢残月茶の煙」として、初
 五はおちついたが、中七の残夢残月が「三冊子」に云っているよ
 うに、「句に拍子あってよからず」である。いかにも談林的で軽い。
 また漢詩的でもありすぎる。」(宇和川)

談林的でも漢詩的でもない「俳諧の独創」を目指す芭蕉がこの句から読み取れる。

【伊勢】〜【西行谷・伊賀】
〇「松葉屋風爆が伊勢に有りけるを尋音信て、十日計足をとヾむ」
 
 芭蕉には連衆がいる。その一人・松葉屋風爆がまず登場。名前のみ。ここから、俳諧仲間への手紙(報告文)のような「野ざらし紀行」の性格が読めるのではないだろうか。こういったお知らせは連衆心をくすぐると思う。芭蕉が新たな連衆を求める手段としても「野ざらし紀行」絵巻は成ったのではないか。
 
 〇「・・・僧に似て塵有、俗に似て髪なし。我僧にあらずといへども、浮屠の属にたぐへて、神前に入事ゆるさず」

 「旅の自画像の披露は、以後『笈の小文』『おくのほそ道』と、芭蕉紀行における一つの特異な型をかたちづくってゆく」(尾形)

みそか月なし千とせの杉を抱くあらし

 「・・・今度は日本の詩歌の伝統を顧み、それへの挑戦という形で俳諧の詩興をまさぐるという方向へ針路を転じてきているのが感 ぜられる。 そうした姿勢は、西行の「神路山月さやかなる誓ひありて天が下をば照らすなりけり」や後鳥羽院の「ながめばや神路 の山に雲消えて夕べの空に出でん月影」など、「神路山―月」という和歌・連歌の伝統的把握を心に置きながら、それをうち返した 形で「みそか月なし」という字余りの表現をもってうち出しているところに、最も端的に示されているということができるだろう」(尾形)

漢詩、和歌・連歌へ挑戦し、「俳諧の詩興をまさぐる」芭蕉の姿勢
が、「脱俗風狂」へ、「日常素材」へ、「古典からの自立」へつながり、
「蕉風俳諧」を開花させた。貞門、談林を超える新たな風を俳諧に起こしたといえる。
 一方で、
 「手にとらば消えんなみだぞあつき秋の霜」「旧里や臍の緒に泣くとしの暮」(貞享四年)、「父母のしきりに恋し雉の声」(元禄 元年)の句のあることも芭蕉の人間像を考えるうえで忘れてはならない。「一処不住、旅に死んだ芭蕉であったが、彼ほど故郷を思 い、父母の恩愛に泣き、骨肉はらからを慕った詩人は少ない」(宇和川)
 
【竹の内・当麻寺】〜【後醍醐帝廟・常盤塚・不破の関・大垣】
 〇「・・・松をみるに、凡千とせもへたるならむ。・・・かれ非情といへども、仏縁にひかれて、斧斤の罪をまぬかれたるぞ。幸にしてたつとし」」
 〇僧朝顔幾死かへる法の松(「松にことよせて仏縁を讃える句」)
 
移りゆくもののなかで、生まれ変わるものとしての「僧」「朝顔」、変わらないものへの象徴としてのこの「松」の句は、「辛崎の松は花より朧にて」から「清瀧や波にちり込む青松葉」(元禄七年)までの芭蕉の松の句を生む原動力になったと思う。俳諧文芸の孕む宗教性も芭蕉の一連の「松」の句から感じとれるように思う。

 〇「大垣に泊りける夜は、木因が家をあるじとす・・」
 〇しにもせぬ旅寝の果よ秋の暮
 
 ここで、この旅の成果(「冬の日」五歌仙)の縁結びをしたといわれる木因登場。芭蕉は「しにもせぬ」と安堵し、連衆を求めて熱田、名護屋風狂行脚へ出立する。「風狂」をことに感じるのは、「この道や行人なしに秋の暮」(元禄七年)の句を知っているから。
 
【桑名・熱田】〜【名護屋
 〇冬牡丹千鳥よ雪のほととぎす〇明ぼのやしら魚しろきことこと一寸〇しのぶさへ枯て餅かふやどりかな(いずれも白のイメージ)
 〇狂句木枯の身は竹斎に似たる哉」「草枕犬も時雨るかよるのこゑ」をはさんで、
 〇市人よ此笠うらう雪の傘〇馬をさへながむる雪の朝哉〇海くれて鴨のこゑほのかに白し(この三句も「白」のイメージ)

「木枯」「時雨」の二句をはさんで、前後の三句、それも芭蕉の代
表句といわれるものを含んだ各三句が「白」のイメージであるのは、
冬季の句とはいえ、意図的な配列ではないだろうか。「死」と「再生」
のイメージの展開を「しにもせぬ旅寝の果」の後に図ったように思う。
亡き母を弔い、各地を行脚した後名護屋連衆に対して「狂句こがらしの身は竹齋に似たる哉」
と乞食もどきに身をやつして挨拶した詩人・芭蕉。そして、「たそやとばしるかさの山茶花
(白い花)と「その生き方に崇敬の念を添え」た野水。「野ざらし紀行」の読者はこうした
背景も踏まえ、俳諧の新たな胎動をこれらの「白」の句から感じとったのではないだろうか。
 
【山家越年・奈良】〜【鳴滝・伏見・大津・辛崎】

 〇年暮ぬ笠きて草鞋はきながら

行く年来る年のなかで、旅に動く芭蕉がいる。

 〇「奈良に出る道のほど 春なれや名のなき山の薄霞」〇「二月堂に籠りて 水とりや氷の僧の沓の音」〇「大津に至る道山道をこえて 山路来て何やらゆかしすみれ草 湖水眺望 辛崎の松は花より朧にて」

 前に進み、出会うものに映発する詩魂がある。「自分の前に現れる
ものと対峙する芭蕉俳諧」(谷地)がある。

【水口・尾張】〜【帰途】
ここでは、名前の出ない人を含めて、芭蕉の人生を彩り、芭蕉の業績(言葉)を後世に伝えてくれた連衆である服部土芳、路通、其角、桐葉(「熱田三吟」)、杜国が登場する。
連衆とともにある芭蕉像のなかで、「冬の日」全巻三十四の付句を行った杜国について少し調べてみた。

 「『春の日』に、芭蕉翁を送りてかへる時 この頃の氷踏み割る名
 残かな の句が見えるが、これはこの年十二月の末、いよいよ芭
 蕉が名古屋を引き上げて帰郷するときの吟と思われ、悲寥の気の
 漂うものがある。こうしてこの年も暮れ、翌貞享二年の三月末、
 芭蕉は再び熱田を訪れたが、どうしたものか次の一句のほか名古
 屋蕉門との酬和が見出されないので・・・・」(大磯)

〇杜国におくる
 白けしに羽もぐ蝶の形見哉

 「『野ざらし紀行』のこの句はこのときの吟で、哀切をきわめてい
 るからすでにその事があったのかも知れない。他の門人もしばら
 く遠慮したのであろうが、杜国はやがて八月十九日の判決で家屋
 敷を没収され、名古屋を追われて伊良胡に侘住居する身となった」
(大磯)

『春の日』に杜国の付けはない。今まで、その不在に気が付かなかった。がんばれ杜国、連衆もおまえの才能は知っているぞ。といった思いが「杜国におくる」という掲示につながったと思う。

以上、「野ざらし紀行」から見出した芭蕉像は、芭蕉が真摯に俳諧打ち込む、自由な精神の姿勢の現われであることが分かった。連衆をこよなく愛していることも分かった。このことが、『野ざらし紀行』が蕉風俳諧の源泉といわれるゆえんではないだろうか。
 「『野ざらし紀行』という作品には芭蕉のすべてがひそんでいる」(谷地)

最後に藤田の芭蕉俳諧認識をあげ、これからの連句の可能性を探りつつ、この拙稿を終える。

 「その場限りの即席性や、精神的「その日暮らし」の浮遊状態が全ての局面にわたって貫徹し始めた世界の中にあって、そうした拡 散的状況下の真只中の中から逆ネジをくらわせる如くに逆転的に、人間の諸経験の持つ意味ややりとり(相互性)やおもしろさを、 芭蕉はその問題状況がはじめて出てきた瞬間に俳諧形式の次元で表現し、結晶化していったのである。・・・現在、我々にとって、 芭蕉のように全ての国境線を越え出てゆく「乞食者」の立場にあたるものは一体何であろうか。・・・」(藤田・昭和五十三年二月 四日開催の日本エディタースクールでのセミナー「『野ざらし紀行』を読む」より)

約二十五年前、藤田省三を囲む座談会に出席したおり、「先生は芭
蕉に似ているような気がする」と私が問いかけると、「芭蕉の発句。
その様態・姿勢が私の方法論につながっているような気がする」と
いったような答えを藤田氏が返してくれたことを思い出す。


〈参考文献〉
「えんぴつの旅・松尾芭蕉野ざらし紀行〜」監修・谷地快一(平
成十八年八月十日)マックス、「野ざらし紀行評釈」尾形仂(平成十
年十二月二十五日)角川書店、「野ざらし紀行の解釈と評釈」宇和川
匠助(昭和四十三年六月五日)桜楓社、「藤田省三著作集5 精神史
考察」藤田省三(平成九年四月二十五日)みすず書房、「芭蕉・蕪村
発句総索引」谷地快一他編集(昭和五十八年一月三十日)角川書店
芭蕉俳句集」中村俊定校注(昭和五十六年十一月十日)岩波書店
芭蕉紀行文集」中村俊定校注(平成八年九月五日)岩波書店、「芭
蕉七部集」中村俊定校注(平成三年十二月五日)岩波書店、「芭蕉
と蕉門俳人」大磯義雄(平成九年五月二十六日)八木書店、「俳文学
大辞典」尾形仂他編(平成八年三月三十日)角川書店