小倉 久女 長崎  市川千年

 10月1日の蓼艸さんの杉田久女に関する留書を読み、連句初心の頃「花衣」で花の座をあげて花の句を読んだこと、大岡山にあったユングフラウという、東京工業大学の先生や卒業生の常連が多かったバーのママさんが、戦時中、杉田久女の隣家に住んでいて、客の私に当時のことを話してくれたこと、ママさんがその経験をカルチャーセンターで小説にして、掲載誌を私に送ってくれていたこと等々を思い出した。
 1980年代後半から1997年まで目蒲線大岡山駅に近いところに私は住んでいて、生きた昭和史のようなママさんの話を聞くのを楽しみによくユングフラウへ会社帰りに寄ったものだった。新素材の鈴木先生スペースシャトルの毛利宇宙飛行士にヒューストンだったか宇宙基地から指示をした話や、東工大副学長だった地震の先生からトルコ周辺で地震の会議をやろうとしたら、場所がなかなか決まらず、マケドニア開催でやっと周辺国が納得したとか、おもしろい話もカウンターで隣り合って聞ける愉しい店だった。閉店後も1回、新橋のインドネシアラヤという店で、東工大の先生(学生時代からユングフラウに通って現在教授)が音頭をとってママと集う会が行われ私も参加した。
 小説掲載誌送付のお礼に電話して、また来年も集いをやりましょうなどと言ったかどうか、ママさんからは「もう結構です。そんなことよりねえ市川さん、あなた早く結婚しなきゃだめよ。あなたは結婚したらもっと大きくなれる・・・」などと言われ、生返事してそれっきりになってしまった。
 ママさんは戦後、小さなお子さんやご主人を亡くされたらしいこと、その後、結核療養、エリザベス・サンダース・ホームの手伝い(エネルギッシュな澤田ミキのアメリカ講演旅行の話も聞いた)、大岡山で貸本屋、地元の蕎麦屋さんの協力でユングフラウを開業したこと。昭和39年の東京オリンピックの時はお店のお客さんの学生達とサッカー「日本対アルゼンチン」戦を駒沢に見に行って、日本が勝ったものだから、アルゼンチンの選手が大変悔しがっていたことも聞いたっけ。
 いつか読もうと本棚にしまいこんでいたママさんこと槐律さんの小説「菊が丘の家」(「蕾」第27号掲載 編集・発行蕾同人会 東急セミナーBE 平成10年(1998)10月25日発行)を読み始め、思わず引き込まれてしまった・・・。

 「小倉の街を憶うと現(いま)でも十三間道路と大谷通りのことが真っ先にくる。初めてあの広い道を〝大きいなあ〟とびっくりしたことが昨日の様に思えるが、あれは女学校に入りたてだった。母と一緒に十三間道路に立った私は目を見張ったものだ。十三間道路は砂津の電車通りから朝日新聞社の前を抜けて北方の連隊の方に通じていると聞いた」で始まる、敗戦の年の小倉でのママさんの新婚生活のことを記した小説「菊が丘の家」から久女に関する部分を引用する。T駅に思いの外近く、生垣の蔓薔薇がもうじき咲きますと言う大家の奥さんの一言で借りることに決めた家に、象三(ご主人)と引越しするところから・・
 
「引越しはリヤカーだった。・・・菊が丘の家に一台目を運んだとき、隣の門に五十年輩の女性が立っていた。隣家の女主人だと思った私たちは挨拶のためにリヤカーを置きかけて女主人の様子に気がついた。険しい眼付きが此方に向けられた侭少しも動かない。此方で見返しても逸らす気配は全くない。対応を拒んでいるのか捨て去ったのか、不気味に此方を見据えるだけのその眼に、感情のかけらを探すのは無理のように思えた。・・・・・黒っぽい銘仙のモンペの上下は着物を拵え直したものであろうか、すらりと着こなしている。鋭い眼つきの異様さを擱くと、中高な貌立は顔色の蒼白さも手伝って、透き徹ってみえた。広い額を上げ、背筋を反らせた姿勢には、何かに立ち向かう身構えのようなものを感じさせる。 女主人は杉田久女だった。・・・昭和の初めにこの借家が建ち、久女はそのころからの店子ということで、(大家とは)随分古いつきあいである。」
「菊が丘の暮らしはときを構わず筒抜けで襲う久女のおらび声で始まった。あの細い躯からと思う大声を張り上げた。金切り声ではなく野太い力のある声だった。正体は判っていてもいきなりのその声には馴れるまでは竦んだ。 象三は越して来ると真っ先に壕掘りにかかった。名ばかりの庭に夕方帰って来ると早速取りかかる。・・・象三の姿が段々穴の中に沈んで行くのが何となく滑稽だった。・・・」
「菊が丘の家では久女の声と警報が交錯した。久女の声はどこまでも追いかけてくる。今まで大声を張り上げていたかと思うと急に静まる。落差の甚だしい久女の世界が手にとるように伝わって来た。 久女の口をついて出る名は皆俳句に連なる人ばかり、中でも高浜虚子の名を一番挙げた。一本調子の叫びの中で何度虚子を呼んだことだろう。高らかに「高浜虚子は!虚子は!」と叫んだかと思うといきなり汚く罵る。つづけて今度は激しい口調で何事か決めつけている。こうした調子が繰り返された。 
 何か虚子に疎んじられているらしい様子で、やり場のない憤怒を爆発させていることが生々しく激しく伝わってきた。女流俳人の名を挙げては言下に貶なし昂然とあんな連中を重用しているのとののしった。と、ここで又虚子に鉾先が向けられる。久女は虚子の名を呼びつづけていた。久女には虚子とホトトギスだけが宇宙の様だ。
 表で見かける久女はきちんとした身仕舞で髪の乱れを目にすることもなかった。むしろ凛々しく見えたほどだったが眼が異(ちが)った。年来の仇でも打ち据えるかのような眼つきに会うとこちらは思わず逸らさずにはいられない。久女の方は俯いたりはしない。いつでもしゃっきり顔を上げて辺りを睨んでいた。」
「気がついてみると久女の声を余り聞かなくなっていた。外はもう夏だった。空襲はいよいよ勢を増し、どこかの町が焼かれない日はなかったが不思議に小倉の町は残っていた。」
「博多が焼けた。隣の八幡も、若松、戸畑、そして手の届きそうな近さで門司も燃えた。海峡の向こうの下関は焔を海に映して燃えていった。・・・小倉にも爆弾が何度か落とされた。いつも白昼で象三はいなかった。狙いは製鉄所か兵器工廠らしい。・・・八月に入っても小倉は無事だった。九日は戌の日に当たり、妊娠五ヶ月目に入った私の帯の祝いだった。・・・玄関の式台に父がドサリと置いた荷物からは、目の下二、三寸はあろうかと思われる見事な黒鯛がでてきた。・・・勢よくとぶ鱗のはねる音の中で象三は広島に落とされた新型爆弾のことを父に話していた。」
「主賓のお産婆も、実家の母も到いた。朝からの警戒警報が解除になり私達は喜び合って祝い膳を囲んだ。そのときだった。警報に備えて常時スイッチは入れっぱなしのラヂオが叫んだ。「長崎市民全員退避  長崎市民全員退避」 アナウンサーが吾を忘れたように絶叫した。箸を手にしたままの皆が一斉に顔を見合わせた。・・・異変を告げる前に、「いま長崎上空に敵機、一機進入」とアナウンスが聞こえていた。・・・」
「T駅に客を見送った帰り、菊が丘に向かう坂道を上りながら象三も私も昼間の長崎のことが気になって仕方がなかった。私たちはそのことばかりを話題にして歩いた。久女の家の前を通り過ぎた。近ごろ久女の姿を見ることはほとんどなく、声も聞かなくなっていた。この日も杉田家の玄関はひっそりとしたままだった。 翌日の新聞に、長崎にも新型爆弾が落とされたと発表があった。・・・十四日の午後久美ちゃんのお母さんが隣組の伝達係りで現れた。・・「明日の正午の重大放送を聞くこと」と伝えた」
「・・・途中まできて、あっと閃いた。降伏だ。負けたのだ。体の真ん中を何か固いものが貫いていった。」
「八月九日の祝い膳を拵えるのに大童だったあのとき、小倉にはただ一機だけで侵入してきたB29に警戒警報が出されていた。いつものことと、大して気にも止めず、空襲警報に入ってゆくか、このまま警戒警報解除か、どちらかのサイレンが鳴るだろうと至って暢気に構えていた。 長崎の原爆は天気がよければ小倉に落とされていたと云う風評が立ったとき、あの町に暮らしていた者にとって、単なる噂としては衝撃が大きすぎた。同時に小倉だけが焼夷弾から免れていた不思議も腑に落ちなかった。 五十年後の一九九五年の春、朝日新聞で「エノラ・ゲイ」の航法士ダッチ・バンカーク氏がインタビューに応えていた。当時二十四才だったという航法士は、「エノラ・ゲイ」が広島に原爆を投下した前後の詳しい模様を話したあと、あの三日後、僚機「ボックス・カー」が長崎に原爆を投下した。長崎が選ばれたのは第一目標の小倉が視界不良だったせいだとあった。」(了)

 久女の長女の石昌子さんについては、蓼艸さんの留書で初めて知ったが、インターネット検索で、今年1月に95歳で亡くなられていたことがわかった。ご冥福をお祈りいたします。石さんの住所は大田区東雪谷。ママさんの住所も東雪谷、中原街道沿いのマンションだった。洗足池の駅で二人はすれちがっていたかもしれない。
 
 杉田久女「谺して山ほととぎすほしいまヽ」(昭和6年)は俳句に出会った頃からの私の目標になっている。改めて久女について少し調べたので、次に記す。

 創刊百年記念「ホトトギス巻頭句集」稲畑汀子監修(小学館)によると、杉田久女は3度「ホトトギス」の巻頭をとっている。いずれも小倉からの投句で、昭和7年7月号(「無憂華の木蔭はいづこ仏生会」以下5句)、昭和8年7月号(「うら々かや斎(いつ)き祀れる瓊(たま)の帯」以下5句、昭和9年5月号(「雪颪す帆柱山(ほばしら)冥し官舎訪ふ」以下5句)。
 伊藤敬子「杉田久女」(牧羊社)の年表(松浦加古)によると、昭和7年3月、久女は主宰誌「花衣」を創刊(5号をもって廃刊)。昭和9年6月にホトトギス同人となる。この頃虚子に句集出版を申し出、序文を懇請するが「容れられず」。昭和11年10月、「ホトトギス」に日野草城、吉岡禅寺洞、杉田久女の同人除名社告。・・・昭和20年10月末、大宰府の県立筑紫保養院へ入院。昭和21年1月21日、同病院にて栄養失調による腎臓病が悪化して他界。
久女の長女・石昌子により「杉田久女句集」が角川書店から昭和27年10月10日刊行される。序文は高浜虚子