歌仙行第十一章「思はずの春」(初出「俳句未来同人」平成九年十二月号)

○白泉、渡辺白泉の歌仙がのっているよ、と言われて、少し古い朝日文庫の現代俳句の世界『富沢赤黄男・高屋窓秋・渡辺白泉集』(昭和六十年)を図書館の棚に探した。

  うぐひすの近づいて鳴く檜哉    木 庵
   いそぎし人の思はずの春     檜 年
  雨垂に庇の下をこづかれて     雉 尾
   水車をば米さげて出る         木
  麓からどう棲みにゆく月明り       年
   刈りのこしたるおくて一枚        尾

○歌仙「谷目の巻」。白泉集に付録として収録されている。右はそのオモテ六句である。
○木庵こと阿部青蛙、檜年こと渡辺白泉、雉尾こと三橋敏雄、の三吟。『俳句研究』昭和二十二年(一九四七)四月号所載の一巻。
……
○白泉、青蛙、敏雄、といえばご存じ新しい時代の旗手である。
〈戦争が廊下の奥に立っていた〉〈夏の海水兵ひとり紛失す〉〈キリストよ三色すみれ咲きにけり〉〈かもめ来よ天金の書をひらくたび〉〈昭和衰へ馬の音する夕かな〉。愛称する秀句の数々。
○俳句の世界で新しき時代の新しき感動を呼んだ三人集って、敗戦後の混乱の巷に巻いた歌仙ーあるいは新興連句とでも称すべき内容のものでもと期待した私の予感は、しかし、無残にも裏切られた。
…………

○弾圧されて沈黙の間、我らが旗手は、古典俳諧研究に励んでいたという。眼の向いている方向が違うのだ。新しいものを作ろうというのではない。俳句では革新的な新風を吹かせたのに、連句は別と見捨てられたのだ。
○一歩外に出れば戦後の街、焼跡、闇市のどよめきも聞こえたろうに。その中の人間のかなしさおかしさ、連句が対象とする森羅万象が溢れかえっていたと言うのに。
○……歌仙「谷目の巻」は即ちワキ一句に極まるのではないか。
○第二次大戦の後、連句に新風の声がかかるのは実にこれから三年後といっていいかもしれない。橋輭石の〈連句の新形式について〉
○ーー現在私が一つの私案として提唱しようとする形式は、懐紙の観念を捨て去った二十四句のである。懐紙を認めないが故に、折もなければ表も裏もない。月花に関しても又極めて自由な考えをもっている。何が故に私が伝統の目から見て一見かくも飛躍的な説を唱えるかと言えば連句も又時代と共に新しみへ推し移るべきものと信ずるからである。内容に斬新性の必要なことは言うまでもないが、形式に於いても時代に即したものでなくてはならない…。(『白燕』昭和二十四年六月所収)
○新を求める声は即ち、連句界内部から起こったのだった。

○『俳句研究』昭和二十二年の号を俳句文学館に見に行って、岩本梓石の死に出会って来た。
『俳句研究』誌は、昭和二十年三月号をもって休刊したが、戦終って同年十一月復刊している。といっても片々たる小冊子。雑誌の体裁整ったのは明くる二十一年の三月号がやっとだった。その三月号に、戦後初めて歌仙が印刷され発表された。題して「露けさの巻両吟歌仙」菊池雨々/岩本梓石の両吟である。…………
……満尾のあとの二行に愕然とした。

(附記)昭和二十年三月十日払暁岩本梓石翁七十余歳にて敢なく戦災死せり。依ってこの巻同翁の絶吟なり。雨々。

○三月九〜十日朝、は東京人なら誰一人忘れもしない東京大空襲。下町一帯にB29一五〇機が来襲し、東京の約四割が焼失、死者七万二千人に達したと聞く。あの紅蓮の炎の中で一老俳諧師は死んだか。死が、無常が路傍にころがっていた時代。何日前に巻いたか、花の句〈花の世はくるも程なき日和鳶 石〉もあわれ。そういえば、歌仙「谷目の巻」は無常を欠いてはいなかったか。