ああノ会連句、爛柯編集部ー歌仙「音絶えしまま」の巻
音絶えしまま
遅き日や定時退社の影法師 浩 司
猫笑ひゐる春泥の道 夏 生
海氷解くる重き言葉のごとくして 手 留
飛ばす風船しぼみふくらみ 敏 江
じいさんの玉は穴熊月おぼろ 南 天
にゅっとひかりし深葱の白 さなえ
ウ
自動車の凍て削ること一時間 浩
別れた訳を考へながら 敏
乱れ髪速く束ねる手際なり 浩
乳房双つが風を分け行く 蓼 艸
夢の隅を河馬の親子が駆け抜けて 仝
ダリヤ置く窗(まど)昔どほりに 手
麦秋の金の地平に月あぐる 夏
肉の匂ひのモロッコの市 さ
今頃は「犯罪報告書」取材中 夏
蜃楼買ひに老夫婦発つ 手
卵の中に瞳の育つ花明かり さ
目借時食ふAIDSウイルス 蓼
ナオ
春霖の黒い寛衣(トーガ)の卜占官 南
武満徹の音絶えしまま 手
滑走を終へて旅客機満月に 蓼
列柱冷ゆる雲の宮殿 夏
寧楽坂に人妻待てば木の実降る 蓼
「ひらって」と言ふふくよかな声 さ
雪の夜は羽根に包まれ眠るやう 仝
雍正茶碗で喰ふ素うどん 浩
大波が逆らふゴミを曳いてゆく 蓼
難民テントに朝日荘厳 敏
蒸し暑しくたびれてゐる記者の襟 さ
コインランドリーでチクといっぱい 夏
ナウ
サーカスの獣臭なほも残りたる 蓼
神扉を叩く再びはなし 南
邂逅のユングフラウの雨あがる 浩
ヨーグルト発酵すほがらほがらと さ
定年氏空手還郷落花燦 夏
てふてふおりてくるてのひらに さ
(平成八年二月二五日首尾 於東京中野・如庵)(爛柯五号)
留書「秋がない」 村野夏生
上の歌仙をお読みになって、途中ふと立ちどまり、不審に思われた方もあろうか。実は、巻いている時間の中で既に連衆の一人から疑問が出た。歌仙一巻は二枚の紙から出来ている。初ノ折と名残リノ折だ。その初ノ折に、秋がない!
歌仙ーという形式の根底に四季という大いなる自然の顔がその小宇宙を支える巨人のように横たわっていることをぼくらは知っている。四季の移り変り、季感の変化がこの多様性の対話詩、断片詩の進行を司どっているのだ。もっとも、その四季がまた季節どおりに巡行しない所にこの詩形面白さがあり現代に通じる前衛性があるとぼくは思っている。
いま、例えば大会などでは、半歌仙が巻かれることが多い。しかし、少し座ってみると、歌仙の緩急自在の面白さがゆっくりと味わいを増してくるようだ。ま、それはともかく、森羅万象、全世界を、網羅したいという連句本来の欲望に従えば、四季という条件はやっぱり満たしたい。半歌仙は一折一巻だから、一折の中で四季を扱わねばならない。歌仙は二折一巻。四季という条件は一巻の中で満たされればよい、というのが私の考えであった。
なーに、最初からそんな風に考えたわけじゃない。オモテで、春の句がボコボコ出て止まらない。エーイ春秋は五句までだから、月の座まで春で通しちまおう、ひとつの面がひとつの季で占められるのも淋しいから、季移りで冬と行こう。ウラへ入って雑が並んでそろそろ季がほしいと思ったら夏となり、夏の月。とうとう秋の出番がなくなってしまったというのが本音です。蓼艸が明雅先生に伺ったら、「芭蕉を調べたが、歌仙の初折に一句も秋の句がない巻は見つかりませんでした。が、二ノ折にない巻は何巻かあり、一折の中に四季全部をそろえる必要はないでしょう」とのことだったそうだ。(鈴十五号より)