ああノ会連句、爛柯編集部ー歌仙「ナニガホント」の巻

  ナニガホント

新しき年の光の鋼(はがね)色      夏生
 よその星雲より糸手鞠           蓼艸
焼け野原仮面天使に行き会ひて      手留
 低速微音第二楽章             那智
月宮殿すみずみまでも透きとほり      浩司
 ゐのしし歳の獰猛の子よ          宏

質量に時間掛ければ露となる         蓼
 人見る旅は自転車で行く           手
ナニガホント?残る日数の我が我       那
 放哉目覚めラムネ水飲む           蓼
羽化せし蝉の朝風に吹かれゐて        浩
 笑ひ初めたるはならびの歯よ         蓼
表札に一人静とありました           宏
 透視画法のすずかけの径           浩
君の声地に至りなば牡丹雪           那
 掌の中小鳥おどおど             夏
凍月をゴールの隅に蹴り込んで        蓼
 インターネットを揺する北風          手
ナウ 
推せど開かぬ進路相談室の扉よ        那
 ハウドゥユドゥーと馬が駆け入る       蓼
錯乱の女将てんてこてん踊り         手
 辛子を塗ってさらばおっぱい         宏
環礁に七度実験あらしむ勿れ         夏
 「山火事だって?」「夕焼けですよ」     宏
双眼鏡の中なり「愛は限りなく」        那
 男はいつもうろたへるだけ          夏
つかんで治す臓器の病夏の月          宏
 坂転がってゆく青みかん            手
はたはたとセーラー服のゐのこづち       宏
 不良債権増えるやや寒             浩
ナウ
ぬくめ酒甲斐ある命なりけりや         蓼
 雪見るための四畳半です            浩
初蛍手に囲ひしは遥かなる           那
 いぢめられっ子にも夏休みくる         手
花爛漫誤植の僕を飲み込んで          夏
 三人寄った春の鼻風邪             宏

(夏生捌 平成八年一月二十八日首尾 於東京中野・如庵)


  
   留書「我が感傷旅行」   川野 蓼艸


 昭和四年、私は名古屋に生まれた。母は十九歳、岡山から圓山千久(まるやまちく)と言う曽祖母に当る人が手伝いに来てくれた。
 この人は私の母の実母の養母なので、私とも母とも血が繋がっている訳ではなかった。
 昭和二十年三月、空襲で岡山に疎開したが、曽祖母は八十八歳になっていた。彼女は庭に杏子(あんず)の木を植え、生きているうちに実のなるのを楽しみにしていたが、気配はなかった。《植ゑてより幾歳なりや杏子の木あまり長きは許すまじきに》、女らしい艶のある達筆の短冊が木には掛けられていた。彼女は新見藩主関家の御典医の家に嫁いだが、身内に全て先立たれ養女の婚家に身を寄せていた。
 六月二十八日深夜、突如、岡山は空襲に遭った。気がついたら周囲は火の海だった。私は反射的に曽祖母を背負って火の中を突き進んだ。間一髪であった。
 「よっちゃん、これで百軒どもは焼けるじゃろうか」と背中で彼女は言った。岡山中が焼けている、何万軒だよ、と言うと、「こりゃ新見の大火よりひでえ」と言った。
 曽祖母はあんたの恩は一生忘れぬと言った。私は生れた時に来てくれたんだから、恩返しだと言うと曽祖母は泣いた。彼女は叔母の嫁ぎ先に引き取られて行った。叔母も舅をかかえて辛い立場であったが、やむを得なかった。
 曽祖母は急に弱って行った。最後に見舞った時、もはやこれまでと思ったのか、死ぬまでにもう一度水飴と干柿が食べたいと言って一円札を何枚か私の手に握らせた。
 私は岡山駅前闇市を駈けずり廻ったが、当時、そんな贅沢品はあろう筈もなかった。間もなく曽祖母は死んだ。
 私の手には若干の紙幣だけが残った。叔母は新見の寺に曽祖母の骨を納めに行った。

 それから五十年、叔母は曽祖母の没年月日を墓石に彫ってくれと頼むのを忘れた、寺の名前も思い出せない、おばあさんもあれでは成仏出来まい、と言って嘆いた。叔母も八十二歳でそれだけが心残りだと言った。
 ところが従妹の家で思わぬ事に圓山家の諸仏を長年拝んでいる事が偶然分かり、寺も西来寺と判明した。電話番号を調べ、住職に圓山千久の没年月日を墓に入れて下さい、費用は私が出しますと頼んだ。やがて住職から、入れました、一度お参りをして上げて下さいと返事があった。
 私はどうせ行くなら水飴を持参したかったが、そんな素朴な食物は何処の店にもなかった。ところが九月、或る患者さんが、田舎から毎年水飴が届くが、誰も食べない、よかったら先生食べてよ、とひょっくり持って来てくれた。
 干柿が出るのを待ち、十一月の連休に「ああノ会」も休んで勇み立って出かけた。山間部の新見は紅葉が程よく色づき、山は秋の陽光に薄化粧した様に美しかった。
 住職はきちんと僧衣を着て待っていて下すった。墓石には没年月日が未だ彫跡も新しく刻まれていた。
 私は水飴と干柿を供えてひざまずき、おばあさん、長(なご)うかかって御免せえよ、生前に届けたかったんだが、しょうがなかったんだ、と念じて手を合わせると住職は朗々と経を唱えて下さるのだった。
 新見に来る事ももうあるまい。住職の経を聞きながら、生れる時に来て貰い、今度はこちらが背負って火の中を逃げ惑うと言う二人の数奇な運命を、私はしみじみと思っていた。(爛柯四号)