歌仙行第九章「獏の屁と…」(初出「俳句未来同人」平成九年八月号)

○相も変らぬ屋根裏の、自分を棚に上げての老俳諧師のつぶたき。まずはお耳を汚すほどのものでもないかも。
○近ごろの若い娘は、素足(スアシ)を「ナマアシ」と呼ぶそうな。愕然。「素足」という美しい日本語があるのに、何故?
○断絶である。以前もっと驚いたことがある。「少しはものを読んできた」若者が立原道造を知らなかったことだ。「名前だけはチラと知っていますけど」嗚呼!なーにも知りあしない。綱島梁川の『病間録』を読んだか、島田清次郎の『地上』を読んだかと聞いた訳じゃない。あの立原道造だ。チラとは何ともなさけない。

○ あはれな 僕の魂よ
  おそい秋の午後には 行くがいい
  建築と建築とが さびしい影を曳いてゐる
  人どほりのすくない 裏道を       (「晩秋」より)

○三月二十九日は、詩人が東京・江古田の療養所(今、これを書いている窓からかつて見えた)で、深夜、誰ひとりみとるものもないままに喉頭に痰をつまらせて絶命した命日だ。昭和十四年、詩人二十四歳という若さ。
…………
○たまたま館(立原道造記念館・電話03−5684−8780)に設計者・江黒家成氏と出会い、お話を伺った。
 「私は室生さんの『信濃』(戦後の『美しからざれば悲しからん』)で詩人立原を知り、彼の後を追って東大 建築科から彼の就職した石本建築事務所へ入った男です。当時所員は十二、三人いましたが、立原を知ってい たのは、ホンの二、三人でしたね。油屋?もちろん泊りに行きましたよ。一月二月三月……十二ヵ月全部行っ てみたもんです」
 この人も又、熱に浮かされたような道造のファンだった。
 …………

○ある短歌会に頼まれて、清水比庵の話をしたことがある。話終わって、「この中で比庵を既にご存じだった方はどれ位いらっしゃいますか?」と聞いて、愕然とした。挙手する人が、ひとりもいないのだ。
○知らないことを責めているのではない。己が知識を誇っているのでもない。自分が愛した美しいものが継承されないことが、断絶が、ひたすら悲しいのである。
○風雅自在、天衣無縫の歌・書・画三位一体の作品を持って、昭和最大の文人画家と称された清水比庵である。河北倫明はかの鉄斎と比べて「ただ和歌の道を支えとした比庵には、儒者系の学者とはニュアンスの違う、全体として一種まどやかな調和が」あったとまで言っている。……
○比庵は明治十六年、朝霧の小京都・備中高梁の生れ。本名秀。比庵と号したのは昭和十年、五十歳からという。六高、京都帝大法学部を出て、司法官、銀行員、会社員と勤め、昭和五年〜十四年を日光町(現・市)からの強い要請を受け町長に。比庵としての精進はその日光町長を、部下の不始末をかぶって辞めた五十代の半ばからというのがすごい。
○昭和四十一年宮中歌会始の儀に召人。
 ほのぼのとむらさきにほふ朝ぼらけうぐひすの声山よりきこゆ

○歌を詠む人たちの集まりでこの人を誰も知らない。

○数年前、関西の連句専門誌を名乗るある大型の雑誌が〝漂泊の俳人〟を特集した事があった。中に、漂泊の俳諧師としてはまっ先に取り上げなければならない筈の井月のセの字もないので、礼状を書きながら問い合わせたところ、井月を知らないという返事であった。
○芥川や犀星に愛された石川淳『諸国畸人伝』の井月を。ああ!

○断絶である。道造を知らず、比庵を知らず、井月を知らぬ若者たち老女たち。いったいこの国の詩歌はどこへ行っていまうのだろう。
○屋根裏の粗大ゴミ、獏と屁と棲む昔ひっぴいの嘆きであった。