風交、連句がゆくー石田波郷の連句への言及

石田波郷著『俳句哀歓 作品と鑑賞』(発行所・宝文館出版株式会社(電話03−3261−4409)1991年9月17日復刻版第一刷)第1部作句心得「俳句の手法」より。(初版は1957年5月20日

 
 石田波郷が、芭蕉の「菊の香や奈良には古き仏たち」をとりあげ、俳句の手法である「とり合せ」「配合」について述べている。
 引用すると「……この二つがどういふ関係にあるのかといふことは、句の中では何も説明されてはゐない。「菊の香」のもつ情調と、「奈良には古き仏たち」の情調は、それぞれ微妙なにほひをもって独立してゐるが、それが一句の中で、交流し、ひびき合って、さらに高度の複雑な情調がわき起つてゐる。土芳の言を借りれば、「行て帰る心の味也」といふことになる。……」 
 「……連句は、いちばん多いのは歌仙といふ形で、発句、脇句、第三、第四とつづけて揚句に終る三十六句で成立し、十七字の長句と十四字の短句が交互に並び、これを何人かで付けてゆくのである。この前句への付け方に微妙な味はひがあつて興味のふかいものがある。ところが子規はこれを合作の遊戯だとして排斥してしまひ、そのため発句を俳句と改称して今日の発展をうながしたのだが、一方にたいせつなものをも取り落としてしまつたのである。それが俳句固有の付句の微妙高度の味はひである。配合の手法では、一句の中での甲の情調と乙の情調の交流の際に、この「付け」の妙味が発揮される。すぐれた句はすぐれた「付」がなされてゐるのである。……」

 「連句辞典」(東京堂出版)によれば、付味(つけあじ)とは「前句と付句によって創り出される余情の世界を吟味するときの味わいの判定をいう。……余情の要素が触れ合うところを付肌といい、その触れ合い方を付様の塩梅という。『去来抄』にいう「うつり、響、匂ひは付けやうのあんばい也」も、ここのところをいう。……」

 先日、荻窪の古本屋「岩森書店」でもとめた波郷の「俳句哀歓」に、連句について言及した箇所があったので引用させていただいた。前句の言葉や意味(句意)に着目して(すがって)付けることでお茶を濁してしまうことが多くなっていないか、月並みなおもしろくない連句を巻いていないか、反省。
 ここで、現代連句界伝説の月並み付け句「新幹線 大阪までは 駅三つ」や「ポッチを押せば開くこうもり」を思い出した。
 響き付け 狙ったといふ レンキスト/人の記憶に残る月並み(千年)