歌仙行第八章「他者を持たぬ悲しみ」より(初出「俳句未来同人」平成9年6月号)

○独唫についてー。
○私は独唫を面白いと思って読んだことがない。
○〈対話詩〉(私はこの言葉を吉村貞司氏に負っているが)という呼び方があるとすれば、その極北に坐るものは、わが俳諧連句をおいて他はあるまい。複数の作者が対話するがごとく句を重ねて一巻を紡ぎ上げて行く。他者との〈付け合〉すなわち〈対話詩〉である。
……
○「二花三月と云って、花が二度、月が三度の定座がある。外は同じもの、同じ言葉を再び云はぬと、心得て居ればよろしい。数限りもなくある、制約の書など見る必要はない。渋滞なく転じて行けばよい」(根津芦丈「甘汁苦汁(一)」=山襖一号)
○私は特に頑固な式目墨守論者ではないが、ゆるやかに懐紙式に依る中で、自分で考え、納得すればできるだけ古人の言葉を用いるようにしている。
………………

○他者、つまり次に来る未知の一行との間にこそ詩が生まれ俳諧が生まれる。独唫は私は連句(歌仙)とは思えない。……

○……私はかつて彫刻家で画家だった石井鶴三の詩を愛称していた一時期がある。
 ーー足のふむ土はせまけど/ふまざるをたのみてひろし/人の知やすくなしされど/知らざるをたのみてひろし と/いにしへのひじりはいはしき/世のつねは知れるをたのみ/生きの世をおのれせまくす/知らざるをたのみて ひろし/知らざるをたのめとのらす/たふとしやひじりがをしへ/かしこみてをしへにはそひ/ふまざるをわれは たのみて/知らざるをわれはたのみて/世をひろく生きむ

  
 反歌
   よのつねは知れるをたのむ知らざるをたのめとのらすことのたふとさ

 
 石井は『荘子』を読み、その中の「足の地におけるやふむ。ふむといえどもそのふまざるところをたのみて、よくひろきなり。人の知におけるや少なし。少なしといえども、その知らざるところをたのみて、のち天のいうところを知るなり」という一節に感動して、この詩を作ったという。
○これは美しいひとつの人生観ではないか。昨今、いじめブームとやらで死に急ぐ子供たちに、この境地の片鱗でも語ってやれたらと思ったりもする。自分は自分はと鼻にかけるのも、内にこもってしまうのも、なあに自分の踏んでいるだけの狭い土を頼みにしているようなものだ、というのだろう。人はまだ自分の足の踏まない広大な土を頼みにしているから、自由自在に闊歩することができる、というのだ。

俳諧に水を引けば、踏まざるは他者の生きる地であり、未知であると思う。連衆体験を一度でも味わった私は絶対に独唫をもって世界を表現し終ろうとは思わない。踏まざるをたのめ、という。他者の句があり、他界とでも呼ぶべき異域があり、自己の世界とそれらを併せることによって始めて完成する俳諧独自の小宇宙がある。
○他者は更に他者を呼び、多様性の美さまざまに輝く複合空間の無限連鎖の上に喜遊の一大乾坤を建立する事こそ私達の俳諧ではなかったか。座ではなかったか。独唫上に他者を持たぬ悲しみを、私は読む。