爛柯通信 その二「コラボレーション」  村野夏生

連句という、この怪物の正体はいったい何だろう。
○短歌の叫び、俳句の眼、近代詩の陶酔、現代詩の批評―それら全部を包み込んで、なお余りあるといった方がいいか。明治以来の近代日本が忘れ去った巨大な詩的空間がここに眠っていたのである。叫びが眼が、陶酔が批評がコラボレートする。―
○かかる詩形に巡り合った喜び。

○大伽藍といいたいが、その詩的空間の構造は大建築の構築とは、実に遠い。ナニあれは断片の集積、寄せ集めにすぎないサとおっしゃる向きさえある。天をさす塔をタワーを、部分部分を精巧に組み合わせて築き上げる大伽藍を目ざすのでは、それはないのだ。
 連句一巻は、多様な断片を次から次へと巡り遊ぶ庭、巡遊庭園、巡遊詩といった呼び方がもっとも適切かもしれない。自と他が互いに唱和し、衝突しながら、流れてゆく、構築なき対話詩。変化をのぞんで変転きわまりなき多様性の庭を巡遊する、いかにも日本的な文芸なのである。

○スジを通して結論へとなだれこむ、散文の論理性合理性継続性なんかを読者は期待しないでほしい。数十年来、連句を巻いているうちに、私は全く連句的人間になってしまった。要するにシッチャカメッチャカだね。呵々!

○敷衍、並立、射影、梱包、応答、飛躍、挿入、増幅などなど、これが私の「七名八体」だ。二句接続、二句衝突の方法論。連句は接続を楽しむ文学だ。そして「一巻中では同じことは二度と取り上げない」(月と花は別格)という黄金の網がその上に被さっている。これがシバラシイ。

○『建築雑誌』昨年(1996年)の十一月号は「コラボレーティブ・デザイン」を特集していて面白かった。
○コラボレーションとは共同作業、協力の意味だが、日本的には“合力(ごうりき)”とでもするのがいい、という編集長の言葉に始まって、
○シュールリアリスティックな創造力を持った建築家と、リアリストである構造家との間にコラボレーションは成立するか?
○同程度の能力を持つ建築家の組み合わせは?
○強い個性の持主にとっては対等の他者はだんだん邪魔になってくる?
○先生と生徒の関係にならって、いや先生と生徒集団の関係なら?(これはズバリ今の連句の座のあり方だね。)
○夫婦なら?(車谷長吉/高橋順子、また八木壮一/きぬ、の場合など、考えてみたいね)。

ル・コルビュジェ事務所の契約で、実際にはイアニス・クセナキスがその天才を駆使して“造った”、ブリュッセル万博のパビリオンのケースは?
○(クセナキスは作者としての自分の名前をコルビュジェのあとに記載するように要求したが、結局喧嘩別れになった。)
○例によって、話は脱線するが、一九三四年ロンドンの動物園にできたペンギン・プールの話が面白いので引いておく。このプールを、一九三〇年代イギリス建築の代表的存在にしたのが、何あろうペンギンが渡るためのホンの数メートルのコンクリート製のスロープだったそうな。
○コンクリートの重さを全く感じさせない、この上なく美しいたった一枚の造型。筆者は、このペンギン・プールの得た栄誉をこのプロジェクトを遂行したテクトングループでも、
○構造設計担当のO・アラップでもなく、アラップき下の、一技術者F・サミュエリに属するものとしているが、さて?

○途中、失礼ながら、チャチャを入れさせて頂いたように、話のひとつひとつが、わが共同制作としての詩・現代連句と相照応するのが面白かった。

○次のような一節もまた。
 ―DNAが有性生殖によって異った経験を記憶する遺伝子同士を組み合わせることで進化し、多様性を生み出すことで生き延びたように、個人性の世界に固執するのではなく、組合わせによって無限の多様性を生み出せる
可能性をコラボレーションは持っているのかもしれない。個人対個人のコラボレーションにおいてはそれぞれの経験をフュージョンさせる仕方が重要である。(つまり両吟の場合だな、これは。夏生のひとり言)それは(略)みずからを、より高次の開放系の複合体としてとらえる姿勢が要求される。
 ウシダ・フィンドレイ・パートナーシップの一文。『自己の中の他者、他者の中の自己』というタイトルもすこぶる示唆的だったが、ウシダさんが書いたか、フィンドレイさんが書いたか、二句天上の花、のような複合体のペンネームにも驚かされた。

○「現なの陽炎峠のぼりつめ/春の童子のそここ湧出」「砂漠とは井戸を隠して美しき/バイク息継ぐ孤独なる音」など爛柯二号の「背割れ観音」の巻には注として書きたいことは万とある(まえこと、連句は昔から注のいる文学といわれてきたとおりだ)が、今日は、我が家のタイトルについて一言ふれるに留める。

○例えば、ああノ会『勘違ひ平行棒』。我が家のタイトルは会果てたあとのひとつの楽しみとなっている。各論ワイワイ。辺境に棲む一句でも、いつタイトルにまつり上げられるかわからない。冒頭の一句を慣習的に付け、『寒椿ノ巻』とか『初時雨ノ巻』とかいうその辺の精神をキラウのだ。すこしは新しみの匂いがしないか。「亡師つねに願ひに痩玉ふも此新しみの匂ひ也」だ。
 思えば、〈天国自由切符〉だ、〈思ひ寝〉だ、〈ビワハヤヒデ〉だ、〈原節子みたい〉だ。同時代人としての思いを尽くしたタイトルを私たちは持った。ペンギン・プールのF・サミュエリの心を思いやったわけではないけれども。(爛柯三号より)