歌仙行第六章「ほ句」(初出「俳句未来同人」平成9年2月号)

○屋根裏部屋の住まいの俳諧師の出来そこないである。
 ……
芭蕉の俳句というものはない。……「去来抄」でも「三冊子」でも「旅寝論」でも、句とか句くずとか、ほ句付句とかは、厖出(ぼうしゅつ)してくるけれども、俳句はない。
○発句。ほっ句、ほ句というのである。俳諧連句の頭の一行のことである。「座」の文芸の第一句である。芭蕉さんが作っていたのはこれであった。
○俳句。その頭の句一行だけをとり出して「個」の文芸としたのが正岡子規。挨拶、即興、滑稽といった発句の性格は、この時、「革新」された。
……
○それなのに、『芭蕉俳句集』とは何ぞや。
芭蕉がいつ俳句を作ったか。
…………
○一口に言って暴論だろうか。
「君ひとりでそんなことを言っても駄目だよ」という向きは、お手元にある、岩波文庫の『芭蕉俳句集』をお開きになるがよろしい。私の手元のものは昭和四五年三月一六日第一刷発行、中村俊定校注の一冊だが、その巻頭第一行に
まず「凡例」として、
一、本書は芭蕉の作と明らかに認められる発句を、文献によって制作年次順に配列した。
とある。芭蕉俳句集の中身がことごとく発句であるならば、貴方のいう芭蕉の俳句というものはどこにあるのか。
○……連衆が待っているところへつかハレ申されしほっ句〈秋深き隣は何をする人ぞ〉も、有名な句ではあるけれども俳句とは誰もいえないのだ。
…………
○……「芭蕉俳句集の歴史」と小見出しをつけながら、いきなり「芭蕉発句集編纂には二つの……」と始まるのだ。ちょっぴり杜撰。私は愛する岩波文庫のためにちょっぴり泪。
……
○重箱の隅を突つくような話ーと軽蔑し給うな。「俳句」と「発句」は全く別の性格のもの。百年、俳句として或は誤って読まれてきたかも知れない芭蕉の句を発句として(また付句として)読み直す必要があるのではないか、と言っているのだ。
○個に徹する俳句と座の文芸のスタートに位置する発句と。この違いを峻別する所から俳諧連句の一歩が始まるだろう。
○そして歩み入る俳諧、また現代連句の森。集団制作という不可思議な方法。ぼくらは「座」という魔法の絨毯に乗せられて、果たして如何なる天空の極みに拉致されてゆくのだろうか。