歌仙行第4章「闇の座/雑(ぞう)の時代」(初出「俳句未来同人」平成8年8月号)

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  うつつには思ひも寄らぬ筆とりて夢に裾野の雲を描きをり(曽宮一念翁)

○闇。俳諧雑誌『杏花村』の旧号のページを繰っていると、「闇」の字の頻出に驚く。……

  新樹匂ふ闇へと髪の溢れけり/巨きうつばりきしむ短夜  隆/としを

  花闇の底で唖唖といふ永遠/踝(くるぶし)の風なまあたたかく  博之/春眠子

  ニトロの瓶を枕辺に置き/どこまでもしろき縄綯ふ春の闇  天魚/真紀

 
○……『杏花村』の連句作品の志向するひとつに、この俳諧の具体性日常性からの逸脱があるように思われる。これらはつまり、芦丈さん言うところの「ないもの」であり、これまでは絶対につかないものだったのである。
○……非日常の美、天にあるものを花というなら、非日常の存在、宇宙の、はたまた人間性の底にあるものを闇と名付けるのかもしれない。
○中世びとは「花の座」また「月の座」を希求した。現代人は、現代の俳諧師は、加えて「闇の座」をさぐる。
俳諧というこの伝統の巨大な誌的空間の中で、天から地へ、地から天へ、日常から非日常へ、内から外へ、外から内へとぼく達の精神は運動し、ぼく達の詩は浮遊する。……あらゆる異物を詰め込んでしかもそれを持ちこたえる合切袋、乞食袋。その中の百の眼、千の眼。俳諧が現代を、同時代性を呼吸するためにも、ここに「闇の座」を提唱せんとするものである。
○要するに、寅彦の『トルソ』、橋輭石の『非懐紙形式』を経て、俳諧連句もどんどん変貌しているということ。
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○付けによって成立する小空間を部分として一巻を束ねるものは、これまでは「四季」だったわけだけれども、四季の力は衰えつつあるとぼくは考える。
「雑(ぞう)の時代」が、ようやく連句の世界にも寄せて来た。