風交、連句がゆく

手元に「野村牛耳連句集 摩天樓」(昭和五十年七月六日発行、編集・東京義仲寺連句会(山地春眠子))がある。
その中の牛耳野村愛正略伝(作製・石川宏作)によれば、明治二十四年八月二十一日、鳥取県岩美郡大茅村大字楠城村(現国府町)の農家に生まる。大正六年(二十六歳)大阪朝日新聞懸賞小説に応募した「明けゆく路」(約5百枚)が一等入選。(審査員は夏目漱石から交替した内田魯庵幸田露伴島崎藤村)。
大正十三年(三十三歳)府下吉祥寺に新居を構える。森下雨村広津和郎、片岡鉄平、大宅壮一などと交遊しきり。魯庵露伴の両俳論に接したる機縁もあって、このころより俳諧に興味を抱き、俳句を作る。牛耳と号す。昭和二年(三十六歳)大阪朝日新聞に『黒い流』連載。
昭和十五年(四十九歳)従軍作家の一員として南支に従軍。眼前にて無辜の母子流弾にて倒るるを目撃し、無常を感じ、小説を断念。児童文学に専心す。
昭和十八年(五十二歳)信州にあって蕉風俳諧を孤守する根津芦丈翁と初めて会う。五月十六日、月草亭で芦丈捌きにより半歌仙二巻を巻く。海洋小説『海獣』を大阪にて上梓。昭和十九年(五十三歳)郷里(鳥取県)に疎開す。
昭和二十四年(五十八歳)作家グループの会(後、東京作家クラブ)の海音寺潮五郎などとゴーロー会なる連句会を楽しむ。昭和二十六年(六十歳)雑誌『民主公論』に寄稿を始む。のち『連句・作品と自註』を連載。
昭和三十五年(六十九歳)六月、都心連句会結成に際して参加、指導に当る。昭和四十年(七十四歳)都心連句連句集『艸上の虹』上梓。昭和四十四年(七十八歳)都心連句会第二連句集『むれ鯨』上梓。昭和四十六年(八十歳)十月、財団法人義仲寺史蹟保存会主催の俳諧時雨忌に参加。これを機に結成された東京義仲寺連句会の指導に当る。昭和四十七年(八十一歳)七月、大橋仰を中心に結成されたローズ連句会の指導に当る。昭和四十八年(八十二歳)七月、信大連句会の招きに応じ、東京義仲寺連句会連衆を率いて信州浅間温泉に遊ぶ。
昭和四十九年七月六日、心不全のため死去。行年八十二歳。この年の初懐紙の起句に八十四翁とあり。


野村牛耳は村野夏生(わだとしを)の連句の師。夏生さんも童話作家。文 村野夏生/絵 鈴木康司の「やまのくじらとうみのいのしし」(1983年刊、1996年6刷発行、発行所ベネッセコーポレーション、TEL0480−23−9233)の前書きに夏生さんらしいメッセージ「夢みる力」が書かれている。夏生さんが「童話作家の責任が今問われている」とおっしゃっていたことを思い出した。以下全文掲載する。(千年)

「夢みる力」

 「私たちを夢みているひとつの大きな夢がある」−このブッシュマンの言葉が好きで、よくくちずさんでいたものでした。夢みることーこの言葉ほど、現在忘れられてしまった言葉はないのではないでしょうか。現代は忙しい時代です。デパート、スーパーに行けば欲しいものは何でも手に入る、スイッチをひねればテレビは世界中の出来事を即座に映し出してくれる。夢みることとかあこがれるなどということはとっくにポリバケツに投げこまれて、道ばたに出されてしまったようです。
 けれども、そんな今だからこそ、この言葉を思い出さなければいけないのではないか、と考えました。人間の根源的な力がそこにある。ぼくらの力の源泉をそこに見て、夢みることから生きることを始めてみたらどうでしょうか。つよさもやさしさも、共感共苦の感情も、すべてそこから生まれてきはしないでしょうか。そう考えてぼくは夢みるくじらといのししの話を書きました。もちろん、ある詩人が歌ったように「誰もがその願ふところに/住むことが許されるのでない」こともまた痛い事実です。でも、それだからこそ。
 どうかゆっくりと読んでください。そして、くじらやいのししといっしょに夢をみ、願う旅にでてください。