「村野夏生の事」  川野蓼艸

 風信子が解散になって村野夏生がああノ会を立ち上げたのはもう何時だったのか。詩人であり、歌人であり、童話作家であり、近代美術評論家でもあった彼が何時の頃からか体調が万全ではなくなっていった。
 階段を上がる後姿がぎこちなかったり、発言がはっきりしなかったり、不思議に思った。頭の中で思っている事が言葉になって出ないのだ、と彼自身が言う様になって、これは尋常ではないと思った。
 言葉が勝負で生きてきた人が言葉が出ない、こんな辛い事がまたとあろうか。病状は次第に進んだ。彼は日大板橋病院に入院し、見舞いに行った。
 部屋番号を聞いたのによく分らぬ。一人の九十歳かと思われる老人が、看護婦さんに手を取られて前を歩いているのを通り越して探したが見当たらぬ。Uターンをして見て驚いた。その老人と思ったのが村野夏生だった。
 私はああノ会の解散は致し方がないと覚悟をした。すると瀬間文乃からクレームがかかった。
 こんな時、蓼艸さんが頑張って跡を継がなきゃ駄目じゃないの、と言うのであった。
 平成十四年だったか、私は伊丹の柿衛文庫で行われた連歌の会に、自分がどの程度通用するのかと思い、参加した。しかし連句の毒がすっかり身に廻った私の句は、連歌にはならず、光田先生が、蓼艸さん、これは連句ですよ、と却下されて手も足も出なかった。
 あとの晩餐会にも出席した。光田先生、阪大の島津教授、帝塚山大の鶴崎教授のお話も側で聞いているだけで勉強になり、そのまま最後までお付き合いし、帰るのは翌日でもよかったのであるが、私には翌日は是非東京にいなければならぬ理由があった。
 私は知っている限りの人に声をかけ、連句会を開き、これだけの作品が出来ましたよ、ああノ会ももう安心ですよ、と村野夏生に見せねばならなかった。
 しかし、彼は何と前日に既に死亡していた。私はこの時くらい無常感に打たれた事はなかった。彼は性格的にブレのある人ではあったが、明晰な頭脳と豊かな文学性を持ったまま既に亡き人になっていたのだった。
 シューベルトの墓標には「ここに豊かな財宝を埋める」と書いてあると聞く。彼も豊かな財宝と共に、土に眠っている。(連句誌「れぎおん」2008.秋.63号掲載)