爛柯編集部  杉田久女の事  川野蓼艸

 
 10月9日の、杉田久女が登場する「菊が丘の家」の全文を蓼艸さんに送付したところ、いろいろこの小説の不備を指摘されつつも、久女について蓼艸さんが医師会の広報に書かれた文章をメールしていただけた。読ませていただき、ほんとに有難くぐっときました。ここに、引用させていただきます。(千年)

 
    杉田久女の事  1   川野嘉彦

 俳句はやらなくても、高浜虚子の名前は医師会の先生方もご存知であろう。また田辺聖子の「花衣脱げばまつわる」という小説なぞによって、杉田久女という女流俳人のいた事もご存知の方はご存知であろう。
 久女は昭和二十一年一月に死去した、今や伝説的な俳人で毀誉褒貶、誤解、曲解の中に生き、そして死んだ人である。
 最近昭和五十八年初版発行の石昌子著「杉田久女」を必要あって読み返した。昌子氏は久女の長女で現在まだ百歳未満でご健在と角川書店に聞いて確かめている。本書は長女の石昌子氏が母の名誉回復のため、渾身を込めて書かれた本だ。
 長女として親の欠点は欠点として認め、日本中に流布している久女の誤伝を何とか正そうとしている態度は、私には感慨なしには読めなかった。
 久女は大正九年高浜虚子に師事して以来、その才能を愛され遂には同人となり、常に女流のトップクラスにランクされていたのに昭和十一年突如除名処分となる。
 彼女は昭和二十年十月、つまり終戦直後、本人の意思ではないのに九大の出先病院である筑紫保養院という精神科に強制入院、三ヵ月後、誰にも看取られる事なく死去する。
 最後の十年間は彼女にとり最高に不幸であった。彼女さえその気になれば迎えてくれる結社は幾らでもあったのに、自分の師は虚子しかいないと、律儀にそれを拒否した。
 久女は生前に句集を出す事を念願としていたが、ホトトギス除名と戦争を間にはさんでいた事もあって、遂にそれを果たす事なく死去した。
 石昌子氏は母の遺志を継ぎ、昭和二十六年、遂に句集を角川より出す。母は序文をぜひ虚子先生にと言い残していた。しかし除名の事もあり、簡単にはいかなかった。当時、石昌子氏は鎌倉に住み川端康成氏と知己であった。
 川端氏は、よろしい、私から頼んで上げましょう、と言われ、結局、虚子は序文執筆を引き受ける。後述するが、それはいささか嫌味に満ちたものであった。
 虚子も除名以来十年以上経過して久女に対して嫌悪感も薄らいだのか、久女に関する文章を書く様にはなっていた。
 しかし昭和二十一年、死後十ヶ月、十一月にホトトギスに書かれた「墓に詣りたいと思っている」という文章はひどい。石昌子氏の本の丸写しであるが、次の様な場面が出てくる。
 「昭和十一年二月二十二日、フランスに旅行するとき船が門司に係留しているときのことであった。(その日は虚子の誕生日にあたり、船に立派な鯛が船内に届けられる。虚子はそれを久女の心づくしと思う。出航に際しデッキに立つと)虚子渡仏云々という旗を立てた一艘の舟が船尾に現れた。其舟には女の人が満載されておって、其先頭に立っているのが久女さんであった。(女たちはハンケチを振り、久女は先頭に立ち千切れよとばかり手を振っていた。)甲板に出ていた客は皆異様な目をして其舟を見、又視線を私の方に向けていた。
(中略)其舟はもういい加減に離れてくれればと思っているのにいつ迄もついて来た。私は初めの間は手を上げて答礼していたが其気違いじみている行動に聊か興がさめて来たので其まま船室に引っ込んだ。」
 虚子によれば船は帰りも門司に寄航した事になっている。彼が上陸している間に久女が虚子を訪ねて来たという。
 「久女は機関長の上畑楠窓氏に面会して、何故に私に逢わせてくれぬのか、と言って泣き叫んで手のつけられぬ様子であったという。(久女は色紙を書いて虚子に託す。)其は乱暴な字で書きなぐってあって一字も読めなかった。」
 石昌子氏は当時の母は奇矯な振舞があったとはいえ、そんなはずはない、そこまではやってはいない、という気持があって長年納得のいかない重苦しい年月を過したと記す。


杉田久女の事   2 

 ところが昭和五十三年四月二十日に北九州市の増田氏は二百五十頁にわたる「杉田久女ノート」を上梓される。
 増田氏は虚子の「渡仏日記」、八幡市から発行されていた
無花果」、久女の指導していた「白菊会」会員、近辺の俳人たちの話を広く取材し、精密な結果をまとめられた。
 それによれば帰航の際、門司の寄港はなかった、従って久女の非常識な行動はあり得なかった。往航の門司寄港は確かにあったが、旗を立てた舟で見送ったという記述も事実ではなく、虚構だった事がはっきりした、と書いてある由。
 昌子氏は当時白菊会会員でクラスメートの織部清子さんに念のために聞いてみた。彼女は当日虚子の乗った箱根丸が出帆しないうちに、母上、つまり久女と一緒に電車で帰ってきてしまった、という返事が来たという。
 「なぜ、こんな見えすいた一文を草してまで、虚子は久女の奇矯な振舞を強調しなければならなかったのか。」
と増田氏は記述しているらしいのだが、これによって母の異常性は日本中に流布されたと昌子氏は言う。
 久女除名の真相を明らかにしないまま、この様に書く事で自ら納得すると同時に人々の納得を誘いたかったのではなかろうか、と昌子氏は推測している。 
先述した様に昌子氏は川端康成氏に付き添われて虚子邸に行き、久女句集の序文の依頼をする。その際、昌子氏は母の原稿は和紙に墨で書かれ、しかも独特の癖があり、虚子が読みにくいと困ると思い、自分が浄書し直したものを持参したのだが、虚子の序文には
 「送ってきた遺稿を見ると、全く句集の体をなさない、只乱雑に書き散らしたものであった。それを整正し且つ清書する事を昌子さんに話した。昌子さんは丹念にそれを清書して再びその草稿を送って来た。」
となっている。折角書いてやったのに随分な嫌味である。これもまた嘘なのである。
 虚子に「国子の手紙」という文章がある。虚子全集に載っている。全国の大きな図書館には必ずあろう。
 国子即ち久女である。久女は昭和九年から十四年まで二百三十通もの手紙を虚子に送ったと書いてある。それまでの手紙は捨ててしまったが、この人はおかしいなと思ってから保存する事にしたという。捨てた分を入れればもっと多数であったはずである。除名が十一年であるから、それからも出していた訳である。
 虚子はこの手紙の一部を「文体」という雑誌に昭和二十三年に載せようと思い、娘の石昌子さんに許可を求める。
 昌子さんは、生前母がご迷惑をかけた事を思えば今更何が言えましょう、どうぞ先生の御意のままに、と答える。
 誰も一読して驚くであろう。これは虚子への久女の讃仰であり、恨みつらみであり、嫉妬であり、甘えであり、拗ねであり、求愛であり、究極的には恋文である。
 「今日限り先生の膝下を退く。多年のご高恩感謝に堪えず。謹みて御礼申し上げます。国子」という電報(カタカナ)を打ったかと思うと、翌日には、あれは人の策動に乗ってついやった事、お許し下さい、とやる。
 もう支離滅裂である。虚子の文章は先述した様に創作的、かつ悪意に満ち満ちてはいるが、「国子の手紙」はやはり「久女の手紙」であろう。虚子の作為はどの程度入っているか不明であるが、それを差し引いても、こんな人が我々の周囲にいたならば周囲はさぞかし暑苦しかろう。
 その頃虚子には福井県三国町結核を病む森田愛子という親子程年の違う可愛い美人の弟子がいた。
 虚子の彼女に対する文章や、句の贈答を見ると、それはもはや完全に恋愛であり、品のない表現で恐縮であるが、精神的な相姦ですらある。虚子夫人が森田愛子の名前の出ることを嫌った事も理解できる。
 片方の手に若い可憐な愛子、片方の手に暑苦しい中年の久女を持った虚子の気持も忖度できる。国子の国は三国の国であろうという昌子氏の推測は当っていよう。
 
 杉田久女の事   3 

久女の夫・杉田宇内は福岡県小倉中学の美術教師であり、ホトトギスを除名されてからの久女は哀れであった。二人の娘も小倉を離れ、日中、行き場のない久女は夫の中学の用務員室で呆然としている事もあったという。
 そのうち沈み込んで宇内の手に負えなくなった久女は鎮静剤を打たれ、騙される様に強制的に入院させられ、三ヶ月のちに死ぬ。宇内は自分の故郷の奥三河の墓地に彼女を葬り、彼女の実家の松本の墓にも分骨して埋葬してやる。
 松本清張が久女の事を書いた小説「菊枕」を書き舞台にかけられた段階で、昌子に驚愕する様な事実が判明する。清張はどうやら久女入院中のカルテを見た上で執筆したらしいのだ。つまり誰かが病院から彼女のカルテを持ち出したのだ。
 昌子氏は昭和三十年十二月号の「女性俳句」に横山白虹氏夫人、房子氏の「独語独笑する久女」という文章に、「この一文は久女のカルテの写しと看護日誌、自分の記憶をもとに書いた」とあるのを見て、持ち出し犯人は横山白虹だと覚る。
 昌子さんは愕然とする。カルテというものは病院が簡単に人に渡していいものではない。昌子さんが昭和三十五年七月二十五日、病院を訪ねたところカルテは病院にはなかった。
 院長は平謝りに謝ったがどうしようもなく二十年が過ぎた頃、某氏が取材に病院を訪ねたところ、カルテは病院に戻っている事が判明した。昌子さんは早速病院に問い合わせる。
 結局、彼自身外科医であり、俳人でもあった横山白虹が病院から借り出し、橋本多佳子、その他を経て、一時清張も目を通し、誰からか病院に戻されたというのであった。これが医師としてする事か。又しても病院は平謝りに謝ったというが、それにしても酷いではないか。久女のカルテはラグビーボールの様に人の手を転々したのである。
 死者は崇められなければならぬ。生前どんな人でも神に召されたからには、もうこちらの人が手を出してはならぬ。
 白虹という外科医を起点に久女のカルテはあちこちを回ったのである。これは死者を愚弄し、尊厳を冒涜し、墓から骨を掘り出し回覧したも同然である。
 橋本多佳子は特に悪い。彼女にとって久女は俳句を手ほどきしてくれた恩人ではないか。自分に回ってきた時、自分は見る資格のない者です、そう言って病院に戻さなければならなかった人である。幾ら第一線の女流俳人であったとは言え程を知らぬというのは恐ろしい。
 この頃からカルテの中の独語独笑という言葉が一人歩きをはじめ、全国に伝わった。彼女の本当の病名は何だったのであろう。俳人でもあり精神病学者でもあった平畑静塔は昭和二十八年に筑紫保養院に行き、専門家の立場からカルテを見ている。それによれば病名欄にはSchizophrenie(現在は統合失調症と訳す)とドイツ語で記され、日常行動の記録に独語独笑という言葉があったという。
 静塔は次の様に言う。「久女の全盛時代の俳句は感情が高ぶったまま持続している。これは躁病的資質の現われではないか。除名後の彼女の句はその舞台を失った、燃焼のあとの燠火の様な平凡な作品に化している。分裂病素質者は久女の様に舞台を意識して、聴衆を心に浮かべて、朗々と自分の詩歌を誦し得られる筈はない。神殿的な自然に打ち込んではいるが、外部は常に久女の心と一体になっていて自己と外界との疎隔は何の片鱗もなく、どこからも精神分裂の気配は見られない」と述べている。
 本書で一番哀れを催すのは久女と昌子の親子が最後に会う場面である。昭和十九年の六月か七月、つまり久女の死の一年半ほど前、久女は宝塚の実母を見舞い、序に鎌倉の長女宅に朝突然、昌子さん、昌子さん、と寝ている彼女を起こす。
 二人の感情はギクシャク食い違いがあったが、久女は二晩泊まり夜行で帰って行った。戦時下の灯火管制で外は闇であった。途中で久女は幼い子供のためにもう帰りなさいと言った。
 「私は負けた。逆らえなかった。私は立止まって母の後姿を見送った。しばらくは月を浴びて見えていた。名越街道の安養院の松が影を落しているあたりで分らなくなってしまった。その前に母はもう一度振り返って、大丈夫だから帰ってお休み、子供を大事にしなさい、と言った。心残りと悔いでこの夜ほどみじめなことはなかった。この日ほど生きてゆくことを淋しく思ったことはなかった。これが母との最後であった。」
 私はこの部分を読むたびに涙がこみ上げてくる。
久女死後、夫の宇内は奥三河の嘗ては十人の使用人のいた家で、一人、十六年の歳月を暮らす。この時期に宇内を訪ねた人は、宇内が実に人懐っこく人に接した由を書いている。
故・飯島晴子氏が昭和五十七年に訪ねた時、長屋門と土蔵だけが残り、「正六位勲六等杉田宇内」の表札だけがかかっていた。