胡蝶「羊水の記憶」の巻  川野蓼艸捌

    羊水の記憶

オ  炎帝へ立体交差登りゆく       川野蓼艸
    フロントグラスに消ゆ雪解山    瀬間文乃 
   兜虫今日はよく子の聞き分けて    粉川蕩人
    円周率は3となりしよ          蓼艸
   天空を曲れば眼下の月細し        文乃
    銀木犀のほろほろと散る         蕩人 
ナ  肌寒を流離の果てに隠岐にあり      蓼艸
    革命分子望郷に泣き           文乃
   イスラムの人は通路に礼拝す       蕩人
    時計を止めて逢引に行く         文乃
   吾妹子の乳首の色の薄かりき       蓼艸
    「ブラディマリー」啜る交互に      文乃
   羊水の記憶溺死の寸前に         蕩人
    DNAを照らす凍月            文乃
   大気圏に寒気団あり摩天楼        文乃
    チャタレー夫人を老僧の読む       文乃
   寸劇の幕引き終へて愛終る        蓼艸
    青鳩の喉ククル・ククルー        文乃
ウ  発止発止夏茉萸摘みて礫とす       文乃
    敗戦の日は我が誕生日          蕩人
   ヒットラーの歯型記録の出でしとか    文乃
    ベンツに乗りて走る春愁         蕩人
   花の吹雪に巻かれ異界を覗きけり     文乃
    白眉の見送る早保姫の背         蕩人

 平成十六年五月三十日(土)  於・西荻窪「遊空間」   



  東電OL殺人事件   川野蓼艸

 私は渋谷東急本店裏のBunkamuraに展覧会や、映画や芝居をよく見に行くが、ここは私の家からは渋谷から行くより一駅手前の神泉駅からの方が近い。その通りは左右とも小ざっぱりとした商店街であるのに、その起始部、つまり駅のすぐ前の木造アパートは戴けない。薄汚く印象が暗い。すぐ上は有名なラヴホテル街である。
 ここで平成九年三月八日、例の東電OL殺人事件が起こり、渡辺泰子が殺された。アパートは今でもそこだけ取り残された様に当時のままである。
 彼女の父は東大卒、東電で重役目前に五十歳そこそこで胃癌で死んだ。母は日本女子大卒、彼女は慶応、妹は東京女子大卒と、言う事のない高学歴家庭である。
 あるネパール人が犯人とされ、一審では無罪だったのに高裁では、疑わしきは罰するで、無期懲役となり拘置所にいる。つまり彼は状況証拠だけで犯人とされた。
 おかしいのは彼女が殺される瞬間まで持っていた筈の定期券が、縁もゆかりもない巣鴨の民家の庭で発見された事である。
 ネパール人は巣鴨に全く土地鑑がなく、彼が彼女殺害ののち、巣鴨まで捨てに行ったとは考えられぬという。実際は真の犯人が金の他にうっかり定期券も持ち去り、始末に困って巣鴨で捨てたと見るのが妥当であろう。大事な定期券の解明は検察側では何もなされてはいない。
 彼女は父親を深く尊敬し、母親が父と折り合いがよくなかったのを恨んでいたとか。売春は母に対する面当てで、母への怒りの表現だという。彼女は路上でも目につかない場所で裾を手繰って放尿をしたとか。 
 父への思慕が幼児がえりになる事があると精神科医が意見を述べているが、これは何か尤もらしい。
 彼女は意外に女性間で同情を引いているとか。私も心の傷をもっている、私も彼女と同じ行為をしたかも、というのだそうな。彼女がその前で客を拾った道玄坂地蔵は今では泰子地蔵と呼ばれ、花が供えられ、地蔵の唇には口紅が塗られている。
 彼女が殺される日に立ち寄った金井青果の主人は、彼女は背が高く痩せぎすの美人だったと教えてくれた。
 いずれにしても不可思議な事件であるが、私はそのアパートを通るたびに真犯人がどこかでほくそ笑んでいる気がしてならぬ。世の中には理解出来ない事も起きるのだという例としてご報告しておきたい。