歌仙「托卵話」の巻  川野蓼艸捌

オ  春を歩む明日よりの我が誰ぞ知る    篠見那智
    初蝶空に吸はれ一点            瀬間文乃
   桜蘂降らせビル風湧き立ちて        福永千晴
    口笛鳴らし犬と少年             川野蓼艸
   「月よりの使者」てふ菓子を提げて行く   小池舞
    句碑歌碑詩碑の多きやや寒        粉川蕩人
ウ  長髪に蒼穹からめ浅茅原            那智
    ナイフの匂ひいづくより来し          舞 
   スプリンター夢の疾走限りなし         文乃
    悪と悪とが午後の抱擁             舞
   潮騒は過去も未来も消し去りて         千晴
    進みなさいとシグナルの青           文乃
   葦の髄より寒満月を覗く鬼           那智
    聖夜の暖炉に聖家族たち            千晴
   国言葉昔は駅に今空港に            千晴
    托卵話ひそと囁く                蓼艸
   一族の生死はろけく花万朶           那智
    紆余曲折の陽炎の道              千晴
ナオ 白酒に微醺の風情右大臣            千晴
    黄色いリボンを鉄条網に            文乃
   雪は霏々座禅の僧を埋め尽くす         文乃 
    ここでは子供間引くべからず          蕩人
   ゆすらうめ産声のごと晴れ晴れと        蕩人
    拭ひあげやる二の腕の汗            蕩人
   手鏡の中に男をとぢ込めて           千晴
    運河に捨てるしかと縛って           舞
   ト占の如何にと仰ぐ夕月夜           那智
    アレグレットに虫が鳴きだす          舞
   石榴割れる呵々大笑し谺して          千晴
    曲馬団には嘗て人さらひ            文乃
ナウ プライバシー筒抜けとなる割長屋        千晴
    記憶の底に母のしはぶき            文乃
   老人性鬱病とあるカルテひらひら        那智
    未完のスコア イ短調なり           千晴
   花どきにダリの時計が鳴り出だす         舞
    和蘭芥子水に放てり              文乃

  平成十六年三月二十八日(日)  於・西荻遊空間 


   留書 「久女遺文」  川野蓼艸

 村山古郷氏が嘗て明治から昭和の俳檀史を執筆された時、風評や伝聞は避け、活字に残されたもののみを採用するとあり、ああ、これは立派な見識だなと思った。
 しかし今回、石昌子氏の「杉田久女」を読み、その活字になったものすら、如何に信用出来ないかを悟った。
 大まかな事は詩々拾録に書いたが洩れたものもある。常識からはみ出ていても、これだけ人から誤解を招き間違った記述をされた人も滅多にない。
 石昌子氏は昭和七年に横浜に就職して家を出たが、翌年の春帰省した。石氏の記憶は極めて清明である。 
 ちょうど妹の光子が東京の美術学校に合格したのに、父の宇内が反対で、入学費用捻出のため、久女は自分の色紙の頒布会を開くべく、俳句の先輩の医師の曽田氏に相談に出かける。
 しかし曽田氏には家庭の事情もあり、その後援責任者になることを断る。横に横山白虹氏がいて、久女さん、まあまあ、と言ったという。久女の日記にもその様に記してあるとか。
 それが他人の文章ではこうなる。白虹「俳句昭和五十五年三月号・一本の鞭」。昭和十一年、久女さんが病院にやってきた。次女の美術学校卒業制作に費用が要るので色紙頒布会をやりたい、(中略)曽田先生に断られた、と言って手のつけられぬ状態となる。ヒステリー発作だ。
 宥めて帰す段で、人の家に来て迷惑をかけ黙って帰るとは無礼じゃないか、と言うと、式台に手をついて謝った。八年が十一年になり、入学が卒業となっている。
 房子夫人の「独語独笑する久女」では同じ事が昭和十三年になっている。八年では白虹はまだ勤務医であり、房子夫人が白虹と結婚したのは昭和十三年である。
 白虹はまだ若く九歳年長の久女にこんな事が言えたであろうか。久女は当時既に女流のトップであり、日本の久女であった。私は四歳年上の故・式田和子さんに気楽に喋ったが、式田さんは立派な人であり、例えそうでなくても、こんな失礼な言い方は出来る筈もなかった。
 飯島晴子氏の随筆で、松本時代、浅川ふささんが子供時代に散歩する久女を見たとか。顔をあげ懐手で背が高かったという。変わって見えたのは確かであろう。
 昌子さんによれば母は大真面目に人生を生きたとか。彼女の生前がどうであれ、俳人は句さえよければ、それでいいではないか、と私は思う。