歌仙「アンモナイトのため息」の巻


   アンモナイトのため息


胸坂や秋のいくつもわだかまる(那智
 ふいにとぎれるカナカナの声(文乃)
遠鼓ちちぽぽと鳴る望月に(蓼艸)
 古武術活かす走法を練る(千年)
おだてれば象も空飛ぶ世なりけり(蕩人)
 ポケットの無い夏のエプロン(舞)

凛として富士に似合ふか月見草(透子)
 時を隔てた記憶あまたよ(詠美)
だまってる言はぬは言ふにいやまさる(那)
 右の眼に愛と白波(蓼)
ジェラシーはウオッカベース甘き酒(文)
 粉々になる蝶番なり(詠)
故郷を追はれしときの月寒き(那)
 アンモナイトの永きため息(透)
少年はいづくに蛇を埋めてきし(蓼)
 なかなか遠き散骨の海(舞)
花なれば嵐にさらせ顔(かんばせ)を(蕩)
 除々老いゆく母の雛は(蓼)
ナオ
うららかに鶯合せはじまりぬ(詠)
 三角乗りの自転車で行く(文)
舞踏家のアキレス腱に翳りあり(詠)
 ウイルスそっと騙し絵の中(舞)
空海をしのぐ宮司の筆さばき(詠)
 松籟聞こゆ鈴の屋の窓(那)
綿菓子と君の浴衣の藍色と(蓼)
 いつかあの日の虹になるはず(舞)
箸箱に情がしのび入ってる(詠)
 誰かゐるらし狭窄の視野(蓼)
マース来よ六万年の月明り(文)
 蜻蛉とまる登記簿の端(千)
ナウ
うそ寒し言霊ついて離れない(詠)
 銃身固く背に負ってゐる(文)
雪暗れのマンハッタンに閑居して(蓼)
 ポロンポロンと黒鍵の曲(舞)
悲しみの器充たせよ花吹雪(文)
 心の証に海市捧げる(蓼)


(平成十五年八月三十一日首尾 於・西荻窪 遊空間)


 四句目の「古武術」の句は、陸上の末續慎吾選手と忍者が同時に浮かんで詠んだったか。昨日、「身体から革命を起こす」甲野善紀、田中聡著・新潮文庫を買って読み始めたところ。その中に、「人は、自分の「実感」を否定することは難しい。まして、それまでにしてきた苦労を愛さずにはいられない。苦労して上位に上がってきたシステムを愛し、利権を守ろうとする官僚的な発想に、「実感」も冒されている。 だから「実感」と思うなかにひそむ観念性を見抜き、生きているものとしての身体を見出さなければ、いくら身体や感覚が大切だといっても、結局は観念を見ているだけに終わりかねないのだ」とあった。
 日本の陸上競技界の常識として「マック式」(誤訳のために「正しい走り方」と教え込まれてきた。腿を高くあげて前方に降りだし、地面を強く後ろへ蹴るという走り方。ゲラルド・マックという東京オリンピック後に招聘されたコーチの説明。)が、選手たちの身体を縛りつづけてきた・・・その迷信が破られて以降、日本陸上界の成績は確実に向上・・末續選手の快挙(2003年世界選手権200m銅メダル)も、その流れのなかにある・・という話の結語部分にある文章だ。
 芭蕉に「軽み」の説があるが、連句も、四季を巡り、様々な場面に出会う身体と感覚の詩的な運動論ととらえれば、こうした武術家を通した言葉は、重くれないように、観念的にならないように句を付け、座を運ぶための参考になると思う。(千年)


 「身体から革命を起こす」読了。気に入った文章を記してみる。
「・・・旗印はどうでもいいのだ。肝心なのは、その、はためきである。はためく動きに、胸騒がされ、みずからのうちにも、はためく動きの饗応を聞く。それが、出会うということだろう。そうして響きあう身体から、やがて新たな時代の声が生まれる。甲野は、そのような変動の震源地たらんとして、連日、各地を飛び回っている。・・・つまり出会いを求めているのである」
「生きている身体は、構築されたメカニズムではなく、はじめから関係性をはらんだ身体であり、即興的な生成と転変のやむことなき流れとしてある。そこは、さまざまな感覚が響きあって生成する世界であり、そこに緊張があれば、他にも緊張の世界が生まれる。運動は運動の世界を、力は力の世界を生む。そのような感応性のうえに身体はある。・・・」
「甲野は若き日に、「人間の運命は決まっているのか、いないのか」という問題に煩悶したすえに、「運命は、決まっているが、同時にまったく自由である」という結論にたどりついた。その考え方には確信があったが、これを観念的な理論に終わらせず、身体を通じて実感したいと思い、そのために武道を学びはじめた。生きるか死ぬかが一瞬の行動によって決せられる場面こそは、運命と自己決定という矛盾する二面が同時に鮮やかに顕在化する場であり、その場での振舞い方としての技を探求することが、そのことの実感を深めることになるだろうと考えたのである。・・・」
「意識を身体の多様性に向けて開くことは、身体を世界に向けて開くことでもある。 偶然と必然とが一致し、運命と自己決定とが重なっているという感覚は、身体が世界と共鳴する場として生きられているときの実感と言えよう」
「関係性を個に先立つものとして置くとき、個としてとらえられるものは、千変万化してやまない生きている身体である。独立した個我という観念を捨てたとき、はじめてそれぞれに無限の個性が見えてくるということだ。それは永続する個性ではなく、たえず生成され転変しつづける個性である。永続するものは観念だけなのだから。・・・」
 
 甲野善紀のあとがきより「・・・言語による説明というものは、Aの時にBというように、常に二者間の関係性で理解しているものであり、そこに、もう一つのCが加わると、前者のAとBは、たちまち一括りのABとなってしまい、そこを無理にAとBに分離したまま説明しようとしても、もはや解説不能になってしまう。・・・つまり、我々が、日々行なっているデスクワーク的な仕事は、この二つの関係の二次元的処理で済んでいるいるのだが、自分の心内に起こる感情も含めた自然現象は、二次元的方法では本質的に理解することは不可能なのである。 そのために、俳句などは、言語という二次元的道具を用いながら、感覚に訴えるという三次元的世界を現出させ、その無意識に生まれる空間が芸術となったのだと思う。・・・」

 甲野、田中両氏に感謝。連句を人に分かってもらうために非常に有効な認識を頂いた思いです。(千年)