爛柯編集部ー五山から和歌体

 *義堂、絶海に導かれ
 
 義堂と絶海。ふるさとの偉人、五山文学の双璧、連歌二条良基とも交流・・・こんな知識へ少し中身が吹き込めるかと、足利義満六百年御忌記念「京都五山禅の文化」展(東京国立博物館・平成館)へ。全くたまげた。ここまで義堂周信と絶海中津が偉かったとは。義堂と絶海についてはこれから少しずつ調べていこう。義堂は絶海より12歳くらい上だった。
 同展に、「湯山聯句抄」(文禄3年(1594)写)も展示されていた。読み込めなかったが、漢文連句の聯句なるものの絵柄を見学できたことも収穫だった。
 今回思わぬ収穫があった。国立博物館本館に、古今集の撰者の1人、壬生忠岑作といわれる「和歌体十種」(写本)が特別展示されており、見入ってしまった。各務支考の「七名八体」ではないが、和歌を、古歌、神妙、直、余情、写思、高情、器量、比興、華艶、両方の十体に分け、各5首例をあげ、それぞれの体の特徴を漢文であらわしたもの。客もほとんどいなかったのでじっくり見ることができた。
 直体の例として「あききぬとめにはさやかに見えねどもかぜの音にぞおどろかれぬる」、高情体の例として「ふゆながらそらより花のちりくるはくものあなたははるにやあるらむ」が読みやすく書かれていた。山のあなたの・・・「くものあなた」なんて既に詠まれていたんだ・・・。器量体の例として、「かはづなくかみなみ山(がは)にかげ見えて/いまかな(やさ)くらむやまぶきの花」があった。其角が「かはづ飛び込む水の音」に山吹やと付けたのを思い出し、まさかこの歌から・・・・・などと大発見の思いがした残暑極まりないお江戸の午後の贅沢なひと時だった。
 古今集の撰者は4人(紀友則紀貫之凡河内躬恒壬生忠岑)で、延喜5年(905)に成立。「古今的世界が有している歳時や恋に関わる雅びな美意識は、こののち日本文化の最も重要な部分を形成する。日本古典における最高の規範となりえたのである」(鈴木健一「古典詩歌入門」岩波書店、2007)ということは日本人の季節感の規範がこの時期に言語化されたということか。和歌の全盛期から連歌も・・・平安から鎌倉、室町へ・・・(千年)