半歌仙「二兆円」の巻
久しく参加していなかった「ああノ会」に、この6月からふたたび出ている。といっても、いつもみなさんのあとからついていく感じ。もともとそうだったから、出ていなかった分の何かを取り戻すというわけでもないのだが、時間のブランクは確かにある。
千年さんから「イナバウアーにハンカチ王子」のような句はちょっとねえ、と言われてしまった。次は「ハニカミ王子とバンソウコウ」とでもやろうと安易に考えていたから、もう少し何とかしなくてはならない。
そんなことから思い出したことがある。
平成十年三月八日、「雲ノ会」でのこと。私がこの会に出始めて半年ほど経った頃だ。
爛柯5号(平成十年夏・発行)の最終のページに、このとき村野夏生さんの捌で巻かれた半歌仙「二兆円」が載っている。当時はほぼ毎月、会に参加していた。下の子供はまだ1歳半にもなっていない。私は学校で教える仕事を始めたばかりだった。そんな記憶までよみがえってくる。
さて、その「二兆円」の巻である。
ひめさらの上(ほ)つ枝(え)に透ける二月かな(村野夏生)
春疾風行き残る球根(瀬間信子)
この発句、脇句ですべり出し、私は裏一句目で採ってもらっている。
グラッパ啜る雁すでに片羽はずし(阿武あのこ)
グラッパは葡萄でできたイタリアの強いリキュール。私が「グラッパ」と「雁」の取り合わせを出したのだが、「片羽根はずし」は村野さんの案による。ほろ酔いの雁の姿がユーモラス。その後には鳥羽僧正やら偽紫やらと続き、裏の七句から十句までが以下のようになった。
極冠は凍ててと月面報告書(夏生)
月桂冠は熱燗がよし(信子)
透明な結晶体が体内を(夏生)
不透明なる日本経済(信子)
凍った月面と熱燗のドッキング、透明な結晶体から不透明な経済へと転じてゆく巧みさ。こうしてあらためてみると、数時間のうちに、そのときだけのたった4人の小宇宙ができ上がっていったのだということがわかる。
さて、次の花の句である。村野さんは「みそっかす」の私に花を持たせてくれようとしたのだと思う。しばし待っていてくださった。
「日本経済」という前の句の語からの連想で私に浮かんだのは、ちょうどその頃バブルの後遺症で銀行の不良債権が社会問題になっていたことだった。その解決のために政府が税金を投入することになった矢先で、庶民は怒っていた。そのことと、かねてより日本の銀行の名前に雅びな言葉が使われていることを不思議とも愉しいとも思っていたことを、どうしてもぶつけてみたくなった。今は別の名称になってしまったけれど、当時は、さくら銀行、富士銀行、あさひ銀行があった。まるで「うたことば」である。
この「さくら」は実体のある花ではない。銀行の名称である。そこで村野さんはどうしようかと少し迷われたようである。でも時代を象徴する「さくら」だし、面白いから採ろうということになった。
あさひ富士さくらがねだる二兆円(あのこ)
桃と女体と画伯大好き(上原木々)
近年の銀行名は味もそっけもないものになった。「さくら」「富士」「あさひ」は日本的経営が元気だった頃の残り香のようなものかもしれない。「さくら」と「あさひ」は、あの頃続いた銀行の合併によって生まれた名称だった。
こんな「花の座」があってもよいのかと、私は連句の奥深さに感じ入ったものだ。(阿武あのこ)
半歌仙「二兆円」の巻
ひめさらの上つ枝に透ける二月かな 夏生
春早手行き残る球根 信子
薄氷の地底で醒めし睡虎の眼 仝
網にかかりし風の伝説の像 夏
月光写真一枚の青の深みけり 木々
黄金律の新涼に触れ 信
ウ
グラッパ啜る雁すでに片羽根はずし あのこ
鳥羽僧正も筆を折りたり 信
式部ふとマラソンに目をうばはれて 夏
偐紫の蛸壺の巻 仝
夏さかり沖縄三味線歌かたり あ
ほつれ毛頬に相聞歌せむ 信
極冠は凍ててと月面報告書 夏
月桂冠は熱燗がよし 信
透明な結晶体が体内を 夏
不透明なる日本経済 信
あさひ富士さくらがねだる二兆円 あ
桃と女体と画伯大好き 木
(夏生捌 平成十年三月八日首尾 於東京渋谷 種月庵)