栗山理一の一巻としての連句観 

芭蕉会議の谷地先生の御示唆で、栗山理一「芭蕉の芸術観」(永田書房)を読んだ。その中に連句一巻をどのように評価、解釈すればいいかの非常に示唆に富む文章があったので記す。古典との対比のなかで自説を展開するこの本は今年の収穫の一冊だ。(千年)

「・・・芭蕉連句のできばえを評価する立場も、個々の付合にあったのであり、力量と気息の合った連衆と一座した連句がすぐれた収穫をもたらしたとしても、それは個々の付合の集積として評価されることであり、そのことと一巻全体の統一的価値とは混同されてはならない。個性的な主体の統一的把握を生命とする近代文芸が実作の場から連句を追放するようになったのも、またきわめて自然な成り行きであったといわねばなるまい。連句一巻に内面的な構成原理を認めがたいことは上述したが、観点を変えて一巻の内容を分析すれば、また別の興味があろう。前述したように良基は『筑波問答』につぎのように説いている。
   連歌は前念後念をつがず。また盛衰憂喜、境をならべて移りもて行くさま、浮世の有様にことならず。昨日と思へ   ば今日に過ぎ、春と思へば秋になり、花と思へば紅葉に移ろふさまなどは、飛花落葉の観念もなからんや。

 自然や人生の変転してやまぬ無常の相を連歌一巻の付け運びの中に認めようとするのが良基であり、その「飛花落葉の観念」はそのまま芭蕉連句観にも継承されていると考えてよかろう。「あかそうし」には「乾坤の変は風雅の種也」という芭蕉の詞を録し、さらに散り乱れる「飛花落葉」を見とめ聞きとめる要を力説する芭蕉の言説を記している。これはもとより発句と連句とにわたる言説と解すべきであろう」
「・・・『万葉集』で部立の中心と考えられたのは「雑歌・相聞・挽歌」の三つであった。・・・連句で旅・恋・無常などの句を重視したことは、明らかに万葉集以来の抒情精神を継承する意図があったことを示している。・・・」
「・・・四季の歌が完全に部立として独立したのは平安時代の『寛平御時后宮歌合』からであり、それにつづく代々の勅撰集が恋の歌とならんで四季歌を重視したことは改めていうまでもない。四季歌は情念を吐露する恋の歌に比べると感性のかがやきを表出するものと考えてよいから、連句で特に月の座や花の座が重んじられたのも、この感性的要素を大切にしたことを示している。
 してみれば、連句一巻の内容は『万葉集』の心を受けつぐ抒情の水脈と、平安和歌によって洗練された感性の水脈と、この両要素の集約が意図されていることになろう。たとえば歌仙の形式はわずか三十六句にすぎない。その中に恋・旅・無常など人生における最も純粋とされる感情体験が四季の句の間にはさまれて点綴(てんてい)するのが、連句一巻の内容ということになる。
・・・・・連句の場合、一瞬とはいえないまでも、きわめて短い時間の中に人生や自然の一切事を擦過するという体験はなんとしても異常といわざるをえない。しかも、それは談笑裡における多数者の対話という形式で進行する。一事に長く執着することは許されない。そのことは前述した「たとへば歌仙は三十六歩也。一歩もあとに帰る心なし。行くにしたがい心の改まるは、ただ先へ行く心なればなり」(「しろそうし」)という心に示されている通りである。これは人生の湿った詠嘆ではない。いわば倏忽(しゅつこつ)の間に人生や自然を観る知見の連続である。乾いた心であり、非情の目というほかなかろう。万葉以来の抒情の心と平安和歌以来の感性の密度を継承集約しながら、そこにはっきりと俳諧の領域が策定されている。それは滑稽を原義とする俳諧諧謔精神とでもいうべきものであろう。長形式としての連句によせた芭蕉の関心もそこにあったと考えられる」
「以上は連句一巻を内容的に分析した試みである。けれども、そのことがただちに連句一巻を統一的に構成する契機や原理となりうると提言しようとしているのではない。連衆が会同する一座の実作の場において、享受と創作の受け渡しを通じ、そこに体験される豊富多彩な人生模様を擦過する異常な感動が逸興のすべてであった。後に記録された文献は単なる「古反古」(ふるほうぐ)にすぎない」