歌仙行第5章「勘違ひ平行棒の巻」(初出「俳句未来同人」平成8年10月号)

○破(やれ)寺の十二神将みな凍つる/勘違ひ平行棒から堕つ

 ああノ会の蓼艸/南天の付け合。初案「から落下」だった。〈落下〉のザハリッヒな語感も捨て難いが、〈堕つ〉の多義性の魅力の下に一直した。奈落いや、地獄に堕ちる、恋に堕ちる。

○誤読について語ろう。一例として、あまりにも有名だが波郷の

   霜の墓抱き起こされしとき見たり

がある。森澄雄がこの句の鑑賞を雑誌に発表した時は、「霜の墓が誰かに抱き起こされたのを作者が見た」とした。それは山本健吉に『馬酔木』に書いた「タッチの差」という文章で指摘されて、「霜の墓を奥さんか誰かに抱き起こされた時に見た」と後で本にした時に直したという。(……『俳句 この豊かなるもの』=邑書林=に収録)……

○蕪村の一句をぼくは長いこと誤って読んでいた。

  几巾(いかのぼり)きのふの空のありどころ

 …………
 これを、ぼくはずっと、この蕪村の眺めている今日の空には、凧は上がっていないのだと思い込んできたのだ。中学生の頃から口誦んできた句の、実はそこが好きだったのだ。……

○誤読を認めた後、だがしかし、森澄雄はこう言う(前書)。

 ……自分の生死を見るような思いで波郷論を書いたんだな。……波郷さんは見てはいけないものまで見たんだなと思った。それは直接、僕自身の問題でもあったんだよ。そういう切羽つまったものがあった。だから僕の受けた感動は僕意外の誰のものでもない。

 「たとえ間違っていても、自分の感動で読め」という森の言葉は熱い。……「解釈はいつも死ぬんだ。直(じか)な感動だけが」必要とされるのだという彼の言葉の、何と説得力のあることだろう。
 ……
○必要とされるのは、読み手が瞬時に了解することだ。そこに捉えられた言葉の内発的な喚起力こそ問題なのであって、書き手がその時どうした、どう考えたなど、余計なことは一切いるまい。
○頸く美しい誤読こそ我らの求めていたものではなかったか。誤読バンザイ。空に非在の凧を上げよ。勘違い平行棒から跳べよ!