歌仙行第3章「翳の如く」(初出「俳句未来同人」平成8年6月号)

○……亡くなった牛耳さんに連句初学者の手習いのための「二句連句」の説がある。……海音寺潮五郎氏の一句〈一本の松たけだけし枯野原〉を取り上げ、〈一本の松たけだけし枯野原/寒鶴一羽国境の山〉〈一本の松たけだけし枯野原/猟銃抱く指のマニュキア〉などなど何と二十六、七の付句を試みたものである。……中の一句を取り上げてみればこうである。

    一本の松たけだけし枯野原/脱走相撲フグ鍋に泣く

−−村端れの一杯飲屋の小座敷で二人の男が酒を飲んでいる。一人はクワイの芽のような髪をした童顔の若者、一人は土地の顔役でもあるらしい四十がらみの人物で、「そうかい。やっぱり相撲の修行は辛いか。だども、おめえが序二段に出世したちゅうて村中のもんらは、今にええ関取になるべえと大喜びしただが、……まあええ、おらが出会ったからにゃ、お母アにゃ詫びしてやる。昼間のうちは戻りにくかろうから、……さあ一杯飲みねえ。フグ食いねえ」「へえ、ごっつあんで、……」気がつくと、窓から一本松が見えている。脱走相撲の若者は出発のさい、大勢の村人達にあそこまで見送られたことを思い出してホロホロと泣いた。

 
 「付方しだいで千態万容に変化することを知ってもらいたい。これが連句」というわけだ。……それにしても牛耳・野村愛正、南支に流弾に当たって死ぬ母子を眼前に見て小説の筆を折ったとはいえ、その心は目はついに小説家だったなあと、あらためてその付句ぶりを偲ぶのであった。

○けだし、小説的想像力といえば、露伴に「俳諧における小説味戯曲味」という一文がある。これはいい。………………しかしーと、ここで僕は立ちどまる。なるほど俳諧の小説味よし。しかし、付句なるもの、ことごとくこのように前句に貼りつき、そのすべてを引き受けて明解なものであるのだろうか?
否。

折口信夫を見てみよう。

  きぬぎぬやあまりはぼそくあてやかに/かぜひきたまう声のうつくし

 この芭蕉一代でも有数な付け合いに、折口信夫の含蓄に富んだ注解がある。

 ーー「かぜひきたまう……」は後朝に関係なくつけてゐると見てよいのであって、寧その方が正しいといふ考へが起こって来るだろうと思ふ。後朝の別れに、女は風邪をひいてゐるーーそう見ることもないのである。唯漠と翳の如く、月暈のように、ぽっと視界の外に喰み出てゐると見ておけばよいのである。かう言う風に内容を感受する修練が、連句鑑賞の上には、必ずいるのであって、此用意がなくては、解釈があくどくて、堪へられなくなる場合が多いのである。

 百句あれば百句ことごとく異なった付け味あり、と思う。

   柔らかき蛸を洗ふに生は似し/寝言のごとき高僧の遺書