脳科学者の示唆

 中央公論8月号に、脳科学者の茂木健一郎氏が「新森の生活 多様性を科学する」8回で「見る」という題のエッセイを掲載している。その冒頭、「私たちの経験は、時間と空間の中で秩序づけられている。そして、「時間」と比較した時、「空間」の持つ最も顕著な性質は、さまざまなものが同時に存在するという意味での「並列性」である。多くのものが並び立つことができるという空間の持つ性質こそ、私たち人間が生きるうえで大切な豊饒の起源となる」とある。此の文章に出てくる「空間」を「連句」と読み替えできるのではないだろうか。歌仙なら歌仙36行の並列性、森羅万象多くのものが並び立つことができる空間。その空間には時間性させ入れ込むことができる。・・・連句の性質には「人間が生きるうえで大切な豊饒の起源」がある。
 その冒頭に続き「・・・空間的な広がりの豊かさを実感できる機会は、それほどあるわけではない。私たちの脳の神経細胞の活動のダイナミクスと、外の空間の特性が相互作用して、ある特定の軌跡へと導かれるとき、私たちは初めて「ああ、そうか、私を囲んでいるこの空間はこんなに広いのだ」と認識することができるようになる。「その時」がいつ来るのかはわからない」とある。ますます、この「空間」という言葉は「連句」に置き換えることができるではないか。そして、茂木氏はあの奥の細道の山寺から見下ろした世界(風景)に「家々の屋根や、その間を歩く人々。トコトコ走っていく列車。それらのものたちが同時に視野の中にとらえられて、私は異様な感銘を覚えた」と続ける。そういえば、村野夏生師は連句のことを「散村的小宇宙」とも言っていたっけ。
 以下、茂木氏は絵画を通して「見る」ということを考察していく。「・・・要約だけでは汲み尽くせない何かがあるからこそ、絵画は時に聖なるイコンと化す。・・・・・・何かを摑みつつも、指の間から砂がこぼれ落ちるように圧倒的に失われつつあるもの。その豊饒な喪失こそが、絵を見るという体験の本質である。もし、脳が、ビデオカメラのようにすべてを半永久的に記録できたとしたら、絵画という芸術はこれほどの吸引力を持たなかったろう」
 最後に、アメリカ大陸とアジア大陸は約2億年後に合流して「アメイジア大陸」となり、太平洋は消失すると予想されるとし(プレートテクトニクス論)、「生活の豊饒を包み込む空間もまた、何が起こるかわからないという「偶有性」の中にある。辛うじて「私」を確保することのできる幸せを噛みしめることが、空間の本質と向き合うことにつながる」としめた。36歩一歩も帰らず、偶有性の中で、辛うじて「私」を確保する幸せを噛み締めることが、連句の本質と向き合うことにつながる。
 連句認識を深めることができたように思ったので書いてみました。茂木先生有難うございます。(千年)