第1章「歌仙行」より(初出「俳句未来同人」平成8年3月号)
○ホームに降りたつと、前の車輛から運転士が駆けてきて、切符を受け取る。……一緒に降りた三、四人のおばさんの集団に「歌仙ノ滝はどちらでしょう?菊間川へ出るには?」と聞くと、駅舎に背を向けて山の方を指した。……川に沿ってのぼって行けば、歌仙という滝がある筈である。陽はまだ高い。
……
○脱線といえば、この数日前、歌仙の座に連なった時、ふと考えたことがあった。
それは歌仙とは、脱線の連続ではないかということだ。初心以来さまざまな俳諧の座に連なってきたが、最初から不思議に思う言葉があった。
誰もが何年たったベテランでもみな初心者のように「次は何でしょう」と聞くのだ。
はなはだしい時には捌きが「次は夏にしましょう」などという。ひどいものだ。
つけあぐねた末の「上臈の旅」ならまだ許せるかもしれない。が、誰がこんな、がっちり引かれたレールの上をとぼとぼ辿りたいものか。
脱線あるのみ、俳諧自由。春秋にぎわう名所の滝は人っ子ひとり訪れない、冬のさ中に行くものさ。小さな事かもしれないが、ことは俳諧の本質につながっている。
○いま、世上に多く行われている俳諧がいかに自由から遠いものであるかは、前の言葉を聞かないでも理解できるだろう。式目やら去り嫌いやらへの盲目的機械的服従。
平俗な日常的生活的人間観をなぞる不毛な反復。伝統と称される重いくびきの下であえいでいるのが実情だ。なぜもっと自らの創造力を発揮しないか、なぜもっと自由を楽しまないか。
俳諧の鑑賞者にして制作者である、世界にも稀な〝連衆〟という二面性の椅子の坐り心地をなぜ享受しないのか。私の理解の外である。
「発語とは権力である、発語とは服従させることである―」とバルトはいったそうだ。
われわれに服従を強いる解釈、情緒、権威から解き放たれること。確実性を持ったように見える前句こそ実はこちらが自由に自分の解釈を読み取ることのできる〝テクスト〟であると知れば、俳諧の戯れの入門第一課はまず終了だ。二句合一の間に俳諧は成熟し、私はまた次句の作者によって否定されてゆくのではなかったか……。
想像力の城は築かれては崩され、三十五個の光と闇が交錯する一乾坤を建立する。
要は己れの感受性を第一にして、常に前句を転位させ、読み変えてゆくこと、脱線してゆくことだと思う。
……
○……暗い、日常へとつながるレールをのぞかせて灯がともるころようやく菊間の駅舎に帰りついた。